【HK9S/EDUCE/023】◎昭和恐慌から二・二六事件へ~大陸進出の本格化と軍部の台頭~◎ | HK5STUDIO/CONVENI

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まずは、ポイント(1)。井上財政から見ていきましょう。そのキーワードは、「金解禁」です。
「金解禁」とは、金の輸出を解禁することで、「金本位制」に復帰することを意味します。
1914年に始まった第一次世界大戦の影響で、日本を含む主要国は金の輸出を禁止して、金本位制から離脱していきました。図の赤い期間が、金輸出を禁止していた時期です。
金本位制は、金の裏づけによって、貨幣に信用を与えるという制度でした。つまり、発行できる貨幣の量は、保有している金の量によって制限されます。
しかし、戦争をするには大量のお金が必要になります。そこで、金本位制から離脱して、金と通貨の交換をストップせざるをえなかったのです。
戦後復興が進むとともに、各国は「金解禁」を行ない、金本位制に復帰していきました。
そして、日本も、金本位制に復帰することが必要だと考えられていたのです。
実際、日本国内でも早い段階で金本位制に復帰すべきだという意見がありましたが、前回見たように度重なる恐慌などで、そのタイミングを逃していました。
結局、日本で金解禁が行なわれたのが、1930年1月、大蔵大臣井上準之助の時でした。その経緯を映像で見てみましょう。
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1929年7月、立憲民政党の浜口雄幸が首相に就任し、内閣を組織しました。
浜口は、政治改革、協調外交、教育や社会政策の充実など10項目の主要政策を公表。その中のひとつに「金解禁の断行」を掲げました。
金解禁への準備は、大蔵大臣に就任した前日銀総裁、井上準之助によって行なわれました。
井上は、財政の見直しや軍事費の削減を行ない、国民にも倹約貯蓄を奨めるなど、徹底した緊縮政策を進めます。
浜口内閣の発足からおよそ半年後の1930年1月11日、金の輸出が解禁され、日本は「金本位制」に復帰しました。
しかし、この金解禁は、結果的には最悪のタイミングでした。
数か月前の1929年10月24日にアメリカのニューヨークで株価が大暴落し、それをきっかけに世界中を大恐慌が襲っていたのです。
金本位制に復帰したことで世界経済と直結することになった日本経済も、大きな打撃を受けました。「昭和恐慌」です。
財界からは、井上財政の金解禁に対して、「嵐に向かって窓を開くようなものである」と非難する声もありました。
物価の変動を示すグラフは、金解禁が行われた1930年に大きく落ち込み、恐慌のすさまじさを物語っています。
特に、アメリカが不況になったために輸出の主力商品だった生糸の値段が暴落し、農村に大きな打撃を与えました。
借金を抱えた農家の多くが、その返済のために、娘を「身売り」に出すことが、社会問題となりました。
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第一次世界大戦後、不況が続く日本経済を立て直すために、「金本位制」が持つと考えられていた「経済の自動調節機能」が期待されました。
左の図を見てください。
金本位制を取ると、輸入超過の時期には、その代金支払いのために金が流出します。
金が流出すると、紙幣の量は減っていきます。紙幣の価値が上がる、すなわち「デフレ」となって、日本国内の物価は下落します。
外国からすると、日本の商品が安く買えるようになるので、日本からの輸出が活発になります。
すると、輸出の拡大によって、今度は国外から金が流入してくるので、それに伴って紙幣流通量が増えます。
しかし金本位制ですから、経済発展に対応した紙幣が流通するだけなので、物価は上昇せずに、経済は安定すると想定されたのです。
では、井上財政の金解禁がうまくいかなかったのはなぜでしょうか。それは、「世界恐慌」で世界中が不況だったため輸出が伸びず、経済成長のないデフレ状態が続いたからです。
つまり、この図の2段階目の状態で止まってしまったのです。
物価が下がると、生産者の利益は小さくなります。それが賃金カットや失業につながり、消費者の購買力が低下します。
すると、物を売るためには、さらに物価を引き下げなければならないので、さらに利益が縮小するという悪循環に陥ってしまったのです。
それに対する政府の対策ですが、企業に対しては、たとえば合理化を進めて、生産費を抑える努力をするよう促しました。また、「カルテル」といって、企業同士で価格や生産量の協定を結ばせることで、行き過ぎた競争を抑えようともしました。
井上は、この方針に沿った政策を推し進めようとしました。
しかし、後で触れる「満州事変」の影響もあって、1931年12月、立憲民政党内閣が倒れて、政権は立憲政友会に移ったのです。
そして、井上財政から高橋財政へと、バトンタッチされたわけです。
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1936年2月26日午前5時、皇道派の青年将校が、下士官兵士およそ1400名を率いて、
首相官邸警視庁新聞社政府要人の自宅などを襲いました。
そして、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実、陸軍教育総監・渡辺錠太郎らを暗殺。
侍従長・鈴木貫太郎は重傷を負いながらも一命を取りとめ、首相・岡田啓介は難を逃れて無事でした。
この「蹶起趣意書(けっきしゅいしょ)」は、青年将校らが決起の目的を述べたものです。
元老や官僚、政党などを「国体破壊の元兇」と非難し、彼らを倒し政党政治を否定して、天皇が直接政治にあたる体制を実現するとしています。
このクーデターに対し、はじめ、政府と軍の対応は定まりませんでした。
事件発生の数時間後に出された「陸軍大臣告示」は、将校たちに同情する内容で、「彼らの思いは天皇にも届いている」と書かれていました。
しかし、皇道派と対立していた統制派、岡田、斎藤、鈴木らの海軍出身者を襲撃された海軍、そして重臣を殺傷されたことに激怒した天皇が連合し、反乱部隊の鎮圧に動き出します。
天皇は、「真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為」であり、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰ、コレガ鎮定ニ当ラン」と語ったといいます。
28日、蜂起した部隊を反乱軍と規定し、下士官兵士に対しては、ラジオやビラ、アドバルーンなどで、投降を呼びかけました。
「兵に告ぐ。勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。…徒らに今までの行きがかりや義理上から、いつまでも反抗的態度をとって、天皇陛下に叛き奉り逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならぬ。…」
その結果、29日午後までに、下士官兵士のほとんどが投降しました。
そして、事件を主導した青年将校は憲兵隊に捕らえられ、4日間におよんだクーデターは幕を閉じたのです。
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この事件は、その後の日本の歴史に与えた影響も、とても大きなものでした。
岡田内閣は、事件の責任をとって総辞職し、外務大臣だった広田弘毅が組閣しました。
そして、陸軍大臣に就任した寺内寿一は、軍中枢部から皇道派を一掃する一方で、クーデターを逆手にとって軍備の充実を図りました。
さらに、1913年に廃止されていた「軍部大臣現役武官制」を復活したのです。
これは陸軍大臣海軍大臣には、現役の武官つまり、大将中将しかなれないという制度です。この制度の下では、軍部が大臣を出さないと、組閣できません。
軍部が、自分たちの意に沿わない首相の組閣に協力しないということです。
これを機に、軍部の発言力が増していくこととなりました。
結局、クーデターそのものは失敗しましたが、軍部を無視しては政治ができない状況がもたらされたわけです。
戦争に至る経過を経済と軍部の動向を軸にして、もう一度整理してみて下さい。
また、軍部大臣現役武官制が復活し、内閣が軍部によって倒されることになったり、その前に軍部の言いなりのようになったりしていきますので、その辺にも留意して見ていきましょう。