14世紀に建国した朝鮮王朝は、19世紀末に国号を「大韓帝国」に改めました。
20世紀に入ると、日本の植民地支配を受けるようになります。
そして第二次世界大戦後、アメリカとソ連による分割統治を経て、朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮と、
大韓民国=韓国という2つの国家に分かれました。
このように朝鮮半島は、現在でも冷戦構造が色濃く残る地域です。


社会主義国家として建国した北朝鮮では、近年 経済が停滞し、国民生活の困難が続いています。
一方 資本主義国家の韓国は、1970年代から1990年代にかけて急速な経済成長を成し遂げ、先進国の
仲間入りをしました。
朝鮮半島の現在と、未来への展望を、日本も大きな影響を与えた近現代の歴史を通して見ていきます。
20世紀の日本は、第二次世界大戦前と後で、大きく変わります。
前半は、帝国主義の道を進み、アジアに勢力を拡大していきました。
その日本の歴史が、朝鮮半島にも大きな影響を与えました。
朝鮮王朝は、中国の王朝に朝貢して冊封(さくほう)を受けるという、東アジアの伝統秩序の中にありました。
一方、欧米列強に対しては海禁政策を採り、国を閉ざしていました。
しかし、アヘン戦争によって中国(清)の力が弱まり、東アジアの秩序が動揺します。
朝鮮は1876年、日本と「日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)」を結びます。
これを皮切りに、欧米列強とも同じような内容の不平等条約を結んで開国しました。
その後、日清・日露の両戦争に勝利した日本が、朝鮮への影響力を強めていきます。
これに対し、義兵闘争と呼ばれる抵抗運動が起こります。
しかし1910年、日本は韓国併合条約によって、朝鮮半島を植民地としました。


日本は、統治機関として朝鮮総督府を設置し、インフラの整備を進めます。
その一方で、言論や出版の自由を制限したり、日本のために米を増産させるといった政策をとりました。
1918年、アメリカ大統領のウィルソンは、「各民族が自らの運命を決めるべきだ」とする
民族自決の原則を発表します。
すると、朝鮮でも独立への動きが高まるようになります。
1919年3月1日以降、朝鮮全土でデモやストライキが行われました。「三・一独立運動」です。
朝鮮総督府は、この運動を軍隊と警察の力で弾圧しました。
しかし、その後は言論・文化・経済活動などに一定の自由を認め、支配の安定を図りました。
ところが1937年以降、日本が日中戦争から第二次世界大戦へと進むなかで、統治方針にも変化が
現れます。
朝鮮は日本の大陸政策における重要な拠点とされ、朝鮮の人々を戦争に動員するため、皇民化政策が
とられました。
これにより朝鮮の人々は、各地に建てられていた神社への参拝が求められるようになります。
また、家族制度を改めて日本と同じにし、姓名を変えさせる創氏改名が行われました。
さらに、学校での日本語教育も徹底されるようになりました。
当時 小学校五年生だった 第15代 韓国大統領 金大中 (キムデジュン)は、朝鮮語の科目が正規の
授業から消えてしまうという経験をしました。
同時に、学校内での朝鮮語の使用が禁止されてしまいます。
ある日、学校にいる彼を、用事があった父親が訪ねてきました。
父親は日本語を話すことができず、かといって二人とも朝鮮語を使う訳にはいきませんでした。
金大中は、
「父は困った表情で何かを喋ろうとしたが、口を開けず、そのままきびすを返して、とぼとぼと帰っていった」
と、自伝で振り返っています。
第二次世界大戦の末期には、朝鮮にも徴兵制が敷かれます。
また国民徴用令によって、日本の炭鉱や工場などに動員される人もいました。
慰安婦として戦場に送られた女性もおり、現在、人権上の問題として内外から指摘されています。
1945年8月、日本の降伏・敗戦によって、第二次世界大戦が終わりました。
そして、35年に及んだ植民地支配も終わりを告げました。
しかし、朝鮮半島の人々には、さらなる苦難が待っていました。


第二次世界大戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境として北側をソ連、南側をアメリカが分割占領することに
なりました。
そして冷戦の影響を受ける中の1948年、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が、それぞれ成立
しました。
1950年には、北朝鮮が韓国領内に進攻してきたことを発端として、朝鮮戦争が勃発します。
一進一退の戦闘が続いた後、1953年に休戦協定が結ばれました。
こうして南北の分断が固定化され、南の韓国は、資本主義陣営の国として再スタートを切りました。
しかし1961年にクーデターが起こり、その後、軍人によって統治される軍事政権が続くことになります。


1963年から16年間大統領を務めた朴正煕(パクチョンヒ)は、経済成長を最優先する政策を採りました。
当時の韓国は、朝鮮戦争の影響もあり、世界でもっとも貧しい国の一つに数えられていました。
1965年には、日韓基本条約を結び、日本と国交を回復しました。
この時、日本から韓国へ、総額およそ8億ドルの経済協力金が決められました。
1970年代以降、日本とアメリカによる多額の経済援助と技術援助を基に、成長率平均10%という
急激な経済成長を成し遂げます。
この発展は、首都・ソウルを流れる川の名前にちなみ、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれています。
しかし経済発展の一方で、独裁的な軍事政権によって、国民は様々な制限を受けていました。
その政治体制に反対し、民主化を訴え続けたのが、金大中(キムデジュン)です。
金大中は、「この時期の国民の基本的人権はいっそう侵害され、言論をはじめ多くの自由が放棄されていた」と
振り返っています。
そして国民に活力を与え、希望を抱かせるために行動を決意したといいます。
彼自身も、度重なる迫害を受けました。
1973年、東京のホテルに滞在中、韓国の諜報機関によって拉致監禁されるという事件が起きました。
また、1980年には、軍事法廷で死刑判決を受けます。
これについて金大中は、
「私はこれらを通じて、憎悪よりは忍耐と寛容の知恵を会得したと自信を持って言えます。
憎悪への誘惑があったことも否定はしません。
しかしついに、私はそれらと戦って勝ち抜きました」
と語っています。
1998年、金大中は、第15代大統領に就任しました。
建国後初めて、選挙による民主的な政権交代が実現し、経済もさらに発展していきました。
20世紀に入ると、日本の植民地支配を受けるようになります。
そして第二次世界大戦後、アメリカとソ連による分割統治を経て、朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮と、
大韓民国=韓国という2つの国家に分かれました。
このように朝鮮半島は、現在でも冷戦構造が色濃く残る地域です。


社会主義国家として建国した北朝鮮では、近年 経済が停滞し、国民生活の困難が続いています。
一方 資本主義国家の韓国は、1970年代から1990年代にかけて急速な経済成長を成し遂げ、先進国の
仲間入りをしました。
朝鮮半島の現在と、未来への展望を、日本も大きな影響を与えた近現代の歴史を通して見ていきます。
20世紀の日本は、第二次世界大戦前と後で、大きく変わります。
前半は、帝国主義の道を進み、アジアに勢力を拡大していきました。
その日本の歴史が、朝鮮半島にも大きな影響を与えました。
朝鮮王朝は、中国の王朝に朝貢して冊封(さくほう)を受けるという、東アジアの伝統秩序の中にありました。
一方、欧米列強に対しては海禁政策を採り、国を閉ざしていました。
しかし、アヘン戦争によって中国(清)の力が弱まり、東アジアの秩序が動揺します。
朝鮮は1876年、日本と「日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)」を結びます。
これを皮切りに、欧米列強とも同じような内容の不平等条約を結んで開国しました。
その後、日清・日露の両戦争に勝利した日本が、朝鮮への影響力を強めていきます。
これに対し、義兵闘争と呼ばれる抵抗運動が起こります。
しかし1910年、日本は韓国併合条約によって、朝鮮半島を植民地としました。


日本は、統治機関として朝鮮総督府を設置し、インフラの整備を進めます。
その一方で、言論や出版の自由を制限したり、日本のために米を増産させるといった政策をとりました。
1918年、アメリカ大統領のウィルソンは、「各民族が自らの運命を決めるべきだ」とする
民族自決の原則を発表します。
すると、朝鮮でも独立への動きが高まるようになります。
1919年3月1日以降、朝鮮全土でデモやストライキが行われました。「三・一独立運動」です。
朝鮮総督府は、この運動を軍隊と警察の力で弾圧しました。
しかし、その後は言論・文化・経済活動などに一定の自由を認め、支配の安定を図りました。
ところが1937年以降、日本が日中戦争から第二次世界大戦へと進むなかで、統治方針にも変化が
現れます。
朝鮮は日本の大陸政策における重要な拠点とされ、朝鮮の人々を戦争に動員するため、皇民化政策が
とられました。
これにより朝鮮の人々は、各地に建てられていた神社への参拝が求められるようになります。
また、家族制度を改めて日本と同じにし、姓名を変えさせる創氏改名が行われました。
さらに、学校での日本語教育も徹底されるようになりました。
当時 小学校五年生だった 第15代 韓国大統領 金大中 (キムデジュン)は、朝鮮語の科目が正規の
授業から消えてしまうという経験をしました。
同時に、学校内での朝鮮語の使用が禁止されてしまいます。
ある日、学校にいる彼を、用事があった父親が訪ねてきました。
父親は日本語を話すことができず、かといって二人とも朝鮮語を使う訳にはいきませんでした。
金大中は、
「父は困った表情で何かを喋ろうとしたが、口を開けず、そのままきびすを返して、とぼとぼと帰っていった」
と、自伝で振り返っています。
第二次世界大戦の末期には、朝鮮にも徴兵制が敷かれます。
また国民徴用令によって、日本の炭鉱や工場などに動員される人もいました。
慰安婦として戦場に送られた女性もおり、現在、人権上の問題として内外から指摘されています。
1945年8月、日本の降伏・敗戦によって、第二次世界大戦が終わりました。
そして、35年に及んだ植民地支配も終わりを告げました。
しかし、朝鮮半島の人々には、さらなる苦難が待っていました。


第二次世界大戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境として北側をソ連、南側をアメリカが分割占領することに
なりました。
そして冷戦の影響を受ける中の1948年、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が、それぞれ成立
しました。
1950年には、北朝鮮が韓国領内に進攻してきたことを発端として、朝鮮戦争が勃発します。
一進一退の戦闘が続いた後、1953年に休戦協定が結ばれました。
こうして南北の分断が固定化され、南の韓国は、資本主義陣営の国として再スタートを切りました。
しかし1961年にクーデターが起こり、その後、軍人によって統治される軍事政権が続くことになります。


1963年から16年間大統領を務めた朴正煕(パクチョンヒ)は、経済成長を最優先する政策を採りました。
当時の韓国は、朝鮮戦争の影響もあり、世界でもっとも貧しい国の一つに数えられていました。
1965年には、日韓基本条約を結び、日本と国交を回復しました。
この時、日本から韓国へ、総額およそ8億ドルの経済協力金が決められました。
1970年代以降、日本とアメリカによる多額の経済援助と技術援助を基に、成長率平均10%という
急激な経済成長を成し遂げます。
この発展は、首都・ソウルを流れる川の名前にちなみ、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれています。
しかし経済発展の一方で、独裁的な軍事政権によって、国民は様々な制限を受けていました。
その政治体制に反対し、民主化を訴え続けたのが、金大中(キムデジュン)です。
金大中は、「この時期の国民の基本的人権はいっそう侵害され、言論をはじめ多くの自由が放棄されていた」と
振り返っています。
そして国民に活力を与え、希望を抱かせるために行動を決意したといいます。
彼自身も、度重なる迫害を受けました。
1973年、東京のホテルに滞在中、韓国の諜報機関によって拉致監禁されるという事件が起きました。
また、1980年には、軍事法廷で死刑判決を受けます。
これについて金大中は、
「私はこれらを通じて、憎悪よりは忍耐と寛容の知恵を会得したと自信を持って言えます。
憎悪への誘惑があったことも否定はしません。
しかしついに、私はそれらと戦って勝ち抜きました」
と語っています。
1998年、金大中は、第15代大統領に就任しました。
建国後初めて、選挙による民主的な政権交代が実現し、経済もさらに発展していきました。