【HK9S/EDUCE/016】◎大正・昭和初期の経済と対外関係◎ | HK5STUDIO/CONVENI

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「戦後恐慌・関東大震災」のうちの「戦後恐慌」についてみていきましょう。
左は日本の貿易額のグラフです。
輸出も輸入も第一次世界大戦の間は増えていますが、戦争が終わると急に減っています。この景気の悪化が「戦後恐慌」です。戦争が終わってヨーロッパ諸国の工業生産が回復し始めたことが一つの原因です。そのために日本の工業製品が海外で売れなくなってしまったのです。
しかし、不況が深刻だったもう一つの要因として、「国内市場が狭かった」ということがあります。
当時の日本は、農村では、土地を持った地主と、土地を持たず地主の土地を耕作して小作料を払う小作人という対立構造がありました。一方都市では、工場などを所有する資本家と、そこで働いて賃金をもらう労働者という対立構造がありました。
問題は、労働者や農村の小作人が貧しく、工業製品などを十分に購入することができなかったということです。国内市場が十分ではなかったということで、これを「市場が狭い」というのです。
右の米価=米の値段のグラフを見てください。1918年から急激に米の価格は上がっています。米の買い占めが原因です。その背景には、ロシア革命とそれを受けての日本のシベリア出兵がありました。それではそのことを映像で見てみましょう。
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第一次世界大戦中、ロシアでは戦争への不満が高まっていきました。
1917年3月、当時の首都ペテログラードで、労働者が大規模なデモとストライキに立ち上がり、鎮圧に当たった兵士の一部もこれに加わって反乱を起こしました。三月革命です。これによってロマノフ王朝は倒されました。しかし、代わって成立した臨時政府も、戦争を続けました。
1917年11月、戦争反対を唱える社会主義者レーニンが再び革命を起こし、ソヴィエトという労働者兵士の組織が政権を握りました。レーニンはソヴィエト政権の下で、工場などを社会が所有し、運営するという社会主義国家を建設しようとしました。
ヨーロッパなどの資本主義諸国は、社会主義革命がロシアの外に広がることを防ぐため、ソヴィエト政権を倒そうとします。
その一つとして、アメリカ、イギリス、フランスなどが共同してシベリアに兵を送りました。日本もこの出兵に加わりました。
日本が送った兵力は7万3000。アメリカとの協定で定めた7000人を大きく超える大軍でした。
そして他の国の軍隊が撤退した後も、1922年までシベリアへの出兵を続けました。
(ただし北部樺太には1925年まで兵を送っていました。)
日本国内では、シベリア出兵の噂が広がると、買い占めで米の値段が暴騰しました。
1918年7月末、富山県のある漁村の主婦たちが、米を安く売ることなどを求めて立ち上がりました。
「米騒動」と呼ばれるこの運動はまたたくまに全国にひろがり、軍隊が鎮圧に当たるほどの事態となりました。
米騒動は全国で60万~70万人が参加したといわれる大きな広がりをもった運動でした。写真左はそのときの新聞の紙面です。米騒動についての報道は寺内正毅内閣によって規制され、このように一部が白く消された紙面となりました。
中央の写真を見て下さい。ここに「寺内内閣はかくのごとき理由のもとに米騒擾に関する一切の記事掲載を禁止せり」と書いてあります。
内務大臣が述べた理由は「一つの波が万の波になる。今は事実を伝えるだけでも治安の妨害になる。」という趣旨で、米騒動が報道されることによってさらに運動がひろがることを政府が警戒したからです。
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社会主義を掲げたロシア革命や米騒動以後、さまざまな分野で民衆の運動が発展しました。社会主義という思想は、土地や工場などの生産手段を地主や資本家の私有ではなく社会の財産にして、貧富の格差をなくそうと考える思想です。
労働者や小作人らが、社会主義思想の影響を受けたりして、活動し始めました。
さらに、社会の中で不利な立場に置かれていた女性、被差別部落の人々などの運動も起きました。
その主なものを確認しましょう。
まず労働運動です。1912年に、友愛会が発足しました。これは、労働者と資本家が協力して労働者の立場を改善しようという労使(資)協調主義の立場にたってつくられた労働団体です。
それが米騒動以後の1921年10月には、名実ともに全国的な労働組合としての日本労働総同盟に成長しました。そして各地のストライキなどを支援するようになりました。
農民運動では、1922年に日本農民組合が作られました。
米騒動をきっかけに、小作人が地主に対して小作料の引き下げなどを求める小作争議が各地で起きました。それを背景にこの日本農民組合が作られたのです。
女性運動では新婦人協会が1920年に結成されました。当時、女性にはまだ参政権が与えられていませんでした。平塚らいてうの呼びかけで、婦人の社会的政治的地位の向上、参政権獲得などをめざして作られた団体です。
社会主義思想そのものを広めようとする運動もありました。新人会は1918年、東京帝国大学の学生が中心となって結成した思想団体です。
また日本共産党が1922年、共産主義革命を目指す国際的な組織の日本支部として結成されました。ロシア革命を指導したレーニンの思想に基づいた政党です。「天皇制の廃止」や、後には「日本が植民地を手放すこと」などを掲げました。
では次に、関東大震災について見てみましょう。
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を大地震が襲いました。関東大震災です。
震源地は相模湾北部で、地震の規模はM7.9。現在では、最大震度は7だったと推定されています。ちょうど昼食の時間だったため、東京などでは各所から火が出て、燃え広がりました。
日本の心臓部である京浜地帯は壊滅的な打撃を受け、被害は東京を中心に関東地方とその周辺に及びました。火災などによる死者行方不明者はおよそ14万人、損害額は推定およそ55億円以上にものぼりました。
震災後の1924年6月、加藤高明内閣が発足しました。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の「護憲三派内閣」でした。
加藤内閣は、外務大臣に幣原喜重郎を起用し、英米協調、中国の国内問題への不干渉、日ソ基本条約締結によるソ連との国交樹立など、いわゆる幣原外交を展開しました。
ワシントン体制を覚えているでしょうか。日本を抑えこむことを狙いの一つとしていたこの体制の中にはアメリカ、イギリス、フランスなどの列強がいました。日ソ基本条約には、それらとは別な大国との国交樹立という意義がありました。
ソ連との国交樹立によって社会主義の影響が広まることを想定した加藤内閣は、同じ1925年に治安維持法を成立させました。
治安維持法の第一条を見てみましょう。
「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、またはこれに加入したる者は十年以下の懲役または禁錮に処す」というものです。
「国体の変革」とは天皇制を打倒しようとすることであり、「私有財産制度の否認」とは、農地や工場などを社会の共有財産にしようという社会主義の考え方です。これらを主張する結社、つまり共産党などの社会主義勢力を取り締まる法律でした。
他方では同じ年に、男子の普通選挙法を成立させました。これは、国民的要望にこたえたもので、納税額など財産に関係なく25歳以上の男子すべてに選挙権を与えるというものでした。
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1926年12月、大正天皇が47歳で亡くなり、摂政だった裕仁親王が天皇となりました。昭和の幕開けです。内閣は、この年の1月に第一次若槻礼次郎内閣が発足していました。加藤高明内閣の閣僚が留任し、政策も受け継ぎました。
幣原喜重郎外相は、アメリカイギリスと協調し、中国に対する「内政不干渉」を原則とする外交を進めました。
一方中国では1926年7月以来、蒋介石の率いる国民政府が武力による全土統一、いわゆる「北伐」を進めました。
この動きが日本の権益を脅かすと考えた陸軍、政友会などは、幣原外交を「軟弱外交」として激しく非難しました。
経済の面では若槻内閣は、震災手形と呼ばれていた不良債権の解決に取り組もうとしました。
しかし、1927年3月、大事件が起こります。片岡直温大蔵大臣が議会で、東京渡辺銀行が破綻したと、事実と異なる失言をしてしまったのです。
この失言がもとで、人々が預金を引き出すために銀行に押し寄せました。これを「取り付け騒ぎ」といいます。その結果、各地の中小銀行が休業や倒産に追い込まれました。
さらに、大戦景気で急速に発展した鈴木商店が破産、そこに巨額の融資をしてきた台湾銀行が経営危機に陥りました。これが「金融恐慌」です。
震災手形とは、関東大震災の被害のために決済ができなくなった手形のことです。
まず、手形のしくみを確認しておきましょう。
AさんがBさんに100万円の商品を売るとします。BさんがAさんに現金で100万円払えば取引が無事終わることになります。
しかしBさんがAさんに支払えるお金を手元に持っていない場合もありえます。その時に使用するのが手形と銀行です。
まずBさんはAさんに100万円と交換できる手形を渡します。Aさんがそれを持って銀行に行くと、銀行でお金に換えてくれるのです。つまりBさんに代わって銀行がさしあたって支払いをしてあげるということになります。
それは、一定期間内にBさんが銀行にその分の額と手数料などを上乗せした額を支払うことになっているからです。
しかし、もしBさんが約束の期間内に銀行に支払うことができなかったら、銀行が持っている手形は未払いの状態になります。これを「手形がこげつく」と言います。
すると困るのは、既にお金を受け取ったAさんではなく、銀行ということになります。
関東大震災の後は、企業が地震の被害を受けて支払いができなくなる手形が多数発生して、これを震災手形と呼んでいました。
震災手形の処理をめぐって議会で新しい法津が審議されていましたが、その最中に銀行の経営不安が明らかになってきました。
そして片岡大蔵大臣が、実際にはまだ営業しているある銀行が閉店に追い込まれた、と失言したのでした。
失言で取り付け騒ぎが起き、また大戦中に急成長した鈴木商店という日本第3位の商社と、そこに多額の融資をしていた台湾銀行が経営危機に陥りました。
政府は台湾銀行を救済するための緊急勅令を出そうとしましたが、何とその案が枢密院で否決されてしまいました。
緊急勅令というのは、議会が閉会中に天皇が出す法律でしたが、それが否決されたので、若槻内閣は総辞職しました。実はその背景には、憲政会と立憲政友会の対立があったのです。
若槻率いる憲政会は、外交の面では、アメリカ、イギリスとの協調を重んじ、中国には不干渉という立場でした。財政政策は緊縮財政でした。
一方の立憲政友会は、アメリカ、イギリスとの協調は維持しつつ、中国に対しては積極的に日本の権益を維持拡大しようという立場でした。経済でも、積極的に政府の支出を増やして経済を活性化させようという路線でした。
当時はこの二つの政党が鋭く対立していたのです。
緊急勅令案を審議した枢密院には明治憲法の案を作った一人の伊東巳代治という人がいましたが、この人は政友会寄りでした。つまり、若槻内閣を倒すために否決したという面があるのです。
結局、その後に成立した田中義一内閣がモラトリアム、つまり支払い猶予令などを出して金融恐慌をやっと鎮めました。