型を学ぶと技術だけと言われ、思想を学ぶと技術が不足していると言われる(気がする)。意図なく、なんとなく作っても飽きるかただのラクガキになると分かった。芸術の思想を少し学び、ふたたび芸術の実制作に戻るときの意気込み。最近作っていなかった言い訳、または作り続ける宣言のようなものを書く。
芸術の核を学びたいと思った。いい作品と出会い、いい作品を作りたいと考えた。作品は売上、知名度、権威とのつながりなどでも評価される。しかしそれは経営や商売の考え方で動いており、作品を商品としてのみ扱う。作品の芸術としての良さを考えたい。商品の評価ではなく、芸術の鑑賞をしたい。経営の思想と、芸術の思想は異なる。芸術の核はなんであるか?それは人間が解決なんて不可能な事態に向き合う時の祈り(欲望ともいう)、または想像力のことだと思われる。死、愛、不合理、希望、天災とどう向き合うかという時に必要な思想が、芸術の思想となるのではないか。なって欲しい。
人間は祈るしかなく、、想像力を使うしかない。納得というか、落としどころを見つけるしかなくなる事態に出会うことがある。世界の不合理はどうしようもないもので、それには宗教とか、芸術だけが、正面から向き合う事ができるのではないか。そして祈る以外に人間とは歩いたり、踊ったり、食べたり、線を引いたりするしかない。バタバタするしかない。
バタバタした人の営みは長い時間をかけて型、様式とされてまとめられる。何か作りたい人間はその型や様式をマネすると良い。しかし、なぜ人類は作って来たのか、なぜ欲望し、祈ってきたのかを、感じないといけない。と思う。技術だけの作品はラクガキに思える。型だけの祈りはただの動作でしかない。しかし、型だけでも続けていけば、いつか本当の祈りに到達することができて、その祈りは作品と呼べるのではないか。そうやって型だけのラクガキをつくりつつも、たま~に本当の作品が紛れ込むのを信じている。
どこかにたどり着くための型の反復であり、つまり修行のようなもの。型を学ぶことは、型の練習ではない。型によって芸術的な想像力や祈りを駆動させたい。手段ととしての型でもあると自覚して制作する。型や制作そのものが目的となる純粋化は袋小路だと思われる。芸術のための芸術はあまり好まない。だからといって経済、政治、人権などにすぐに飛びつくこともせず、何を祈るのか、芸術のテーマに思いを巡らせてみたい。制作をすることで、芸術の領分でのみ行える思索を行えるのではないか。今はそう考えてみる。