【超ブラック企業脱サラ】茶農家の二代目が思うこと

【超ブラック企業脱サラ】茶農家の二代目が思うこと

ブラック企業経験あり。
創業1981年。岐阜県の山間で営むお茶農家。昔ながらの農薬に頼らない有機農法を創業当時から実践。有機JASの認定も受ける人にも環境にも優しい農業。元新聞記者だった二代目が思うお茶業界の今とこれらから。http://zuihoen.jp

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「超」ブラック企業から脱サラ 【その3】からの続きです


新しく取り組もうと決めた自社ブランドプロジェクトも容易にはいきませんでした

どんな人に向けて、どんなシーンで、いくらくらいの価格なのか全て未経験のことでした

加えて目に見えないデザインの費用やパッケージの印刷代など経費の工面も難航しました

当初、この計画を家族会議にかけたところ反対を受けました

これまでにやったことがないと言うだけではなく、売れるのか分からない商品のパッケージに投資する余裕がないというのが主な理由です

私自身、失敗するために経費をかけるつもりはないので、どこに出しても恥ずかしくない満足のいく商品にすることが目標でした

結局、相談した結果すぐには理解が得られず最終的には個人的なポケットマネーで支払うことにして計画を進めました

計画の着手から完成まで約半年という時間をかけて出来上がったのが、オリジナルブランド第1号の「有機和紅茶 澪-mio-」です

名前は音から決めて最後に漢字を選びました

名前の由来は生産地である瑞浪=mizunamiとオリジナル=originalからそれぞれ最初の一文字を取り「mio」となりました

飲み物なので瑞々しいイメージであること、岐阜県は清流の国であること、市内の中心部を流れる土岐川(愛知に入ると庄内川)や北部を流れる木曽川のイメージにも合う「澪」の時を選びました

「澪」には水路や川の流れという意味もあります

そこから瑞浪市の特産品として市長にお墨付きをもらい徐々に認知されていきたした

今は岐阜県の特産を選ぶ「飛騨・美濃すぐれもの」にも選定され、各方面で販売もしています

今は全世界的にコロナ禍の影響を受けているめ以前のようになかなか思うようにはいっていません(2021年12月現在)

それでも想いを込めた商品が一人でも多くの方に渡るよう努力を続けています

タイトルの「超」ブラック企業から脱サラ について、今もあまり思い出したくはない記憶ではありますが、そこで得た経験は現在でも無駄ではなかったと思っています

私の場合は偶然生まれた家がお茶屋をやっていたのでその道を進むことを決めましたが、今思えばそうなるための試練立ったのかもしれません

今日は大切な節目となる日でした

新しいスタートに繋がる一歩を踏み出します

ますます努力していかなければいけないので、一人でも多くの方にご理解、ご支援頂ければ生産者として幸いに思います

「超」ブラック企業から脱サラ 【その2】の続きです



約二年半で二度の離職を経験して自分は社会人としての資格がないのではないかと考えていました


時期が悪かった、偶然選んだ会社がそうだったと友人たちには慰められましたが、それを選んだのは私自身です


先を見通す力がなかったと言えばそれまでですが何も得られらなかったわけではありません


頭では分かっていた世間の理不尽さを肌身に感じましたし、学生の頃からやりたかった文書を書く仕事にも携われました


その経験を元に次は何が出来るのか、立ち止まって足元を見ると家業がありました


元々の人生設計では新卒から30歳までは社会勉強をしてそれから家業へ戻るか、それとも与えられた仕事を進むのか決めようと思っていました


しかし、状況が変わって早い段階でこの選択肢を選ぶ機会が来ました


家業を選ぶにあたって葛藤もありましたが昔からの手伝っていた仕事なので勝手は分かっています


ちょうどこの頃に転機もありました


大学生の頃に新しく植えた紅茶品種の「べにふうき」の苗が大きくなり収穫が出来る段階になっていました


同時に静岡で活躍されていた紅茶作りの先生と会う機会があり、技術を教えてもらうこととなりました


これまで緑茶一本だった家業に国産の紅茶が加わる、そして創業者である父も経験のない未知の分野ということもあり、期待と不安の中にもやりがいを感じました


そこからは話が早かったと思います


先生の指導の元、試行錯誤を繰り返しながらようやく納得のいく味の紅茶にたどり着きました


これなら商品化できる!


そう確信しました


この当時の苦労話も長くなるので別の機会にお話します


しかし、ここにも一つ大きな落とし穴がありました


トントン拍子に話が進むに連れ「どうやって販売するのか」という問題に直面したのです


これまで自社ブランドというものはなく商品のほぼ大半を問屋さんへ卸していました


製品になる前の荒茶、つまり原料の状態です


自分達で販売するには製品のパッケージ、販路の開拓と商品のPRを同時に平行して行う必要があります


そのどれもが経験のないことでした


特に自社製品の販売さえままならない状況で当時は名刺やホームページ、パンフレットや商品情報シートなど何一つありません


一つ一つ解決しながら今に繋がっています


この中でも紅茶のパッケージ企画には着手から約半年の期間を要し延べ100人ほどのアンケートを経て誕生しました


パッケージの部分だけでも語り尽くせないのでまた後日まとめます



長くなってしまったので次回に続きます

前回の「超」ブラック企業から脱サラ 【その1】の続きです


一社目はリーマンショックという経済不況が原因だったのである程度は仕方がなかったと割り切ることができました

続く二社目は会社というより当時の上司がかなりアウトな人で正直怖かったです

二社目はハローワークの求人で見付けた新聞社でした

入社当時で創業50年になる会社でしたが社員は10名ほどで細々と続けている状況です

入社のきっかけは念願だった文字を書く仕事ができることです

ただ、そのポジションは同時に広告営業もセットになっていました

その当時は文字を書く仕事が出来るなら広告営業も苦じゃない!!と思っていました

ちなみに数は少なかったですが実際にイチから記事を書く仕事も経験できたので求人の内容に偽りはありませんでした

具体的なブラックの内容は当時の上司(専務)のパワハラです

端的にいうとチ○ピラ紛いの方法で仕事をする人でした

私が受けたパワハラは当時の記憶が蘇るのであまり多くを語りたくはありませんが、人格を否定する言葉を多く投げ掛けられたので後はご想像にお任せします(暴力は受けていません)

上司(専務)は取引先に対して「あんたの会社のワルを書かれたくなかったら、わかってるだろうな?○○警察署の所長は俺の後輩だ」というようなことを平気でいう人でした

昔から贔屓にしている取引先にはそのような形で半ば強引に広告を取っているのを何度か目にしました

社内でもその横暴さは拍車がかかっており私が就いたポジションは短い期間(4年ほど)で15人が入れ変わっていることを知りました

私はどちらかと言えば我慢強い方だったので逆らうことなく、文書が書けるということを心の支えに仕事にあたっていましたが、2ヶ月経とうと3ヶ月経とうと私に対する上司(専務)からの風当たりは強かったです

仮に上司(専務)と同じような方法で広告を集めれば確実に警察のお世話になると思い、地道に通って顔を覚えてもらないながら、時には手土産を持参して理解をしてもらいながら新規の取引先を集めていました

そこから新たに取引が始まった取引先を直属の上司(部長)に報告をするのが決まりでした

ちなみに社員教育と得意先の引き継ぎもなく全て新規営業だったのは前職と同じです

これは退社の日に分かったことですが私が新規に獲得してきた成果は全て上司(部長)の手柄になっていたことを総務部長から聞きました

上司(専務)が私に対して風当たりが悪かったのは上司(部長)が原因でした

どうやらこの方法は以前から行われていたらしくパワハラに耐えられなくなった前任者たちは会社を去っていました

上司(部長)はマジメではあるものの器用なタイプではありませんでした

上司(専務)からの風当たりも強く保身のために部下の成果を全て吸い上げることで何とか立場を守っていたようです

その事を早く知っていたら対応は変わっていたと思いますが、総務部長も上司(専務)からの目を付けられていたので言えなかったようです

もちろん怒りは覚えましたがそれを証明する証拠は残していなかったので争うのはやめました

今思えば労基にでも告発していればニュースになっていたでしょうね

そんな当たり前のことさえ考えられなくなる程度には精神的に追い詰められていました

風当たりが強かった1カ月目から私は何とか一年は続けようと我慢をしましたが、総務部長は一年続けたのは私が初めてだったと言っていました

実は退職する一年の間にも同じ営業部に5名の後輩社員(年齢は私より上の経験者)が営業として入って来ましたが、早い人は半日、長くても4ヶ月で去っていきました

女性の後輩は上司(専務)のセクハラが原因で辞めた人もいます

正直、当時は人間不信になりそうでしたが周りの支えがあって今は何とか立ち直っています


長くなるので【その3】に続きます





ログインパスワードを紛失しておりしばらく更新できていませんでした

何とか復旧できたのでぼちぼち再開したいと思います

復帰一発目のタイトルとしてはなかなか攻めているかもしれませんがご興味があればお付き合いください

「超」が付くというのはあくまでも私の主観ですが今思い返してもなかなか大変な会社でした

勤めていたのは地元の新聞社で入社当日はすでに創業50年ほどと老舗な感じです

元々大学生の頃に小説家や雑誌の編集者などの物書きになりたいと思っていましたが、専門的な勉強をしていたわけでもなく当時の教授から狭き門だと説得され別の道を進みました

最初に入ったのはメーカーでしたが当時はリーマンショックの煽りを受けて会社の中はボロボロ

入って2ヶ月で名古屋の駅前にあったオフィスを畳んで規模縮小というそれなりのブラック加減です

入って2ヶ月目には希望退職者の募集とリストラがあり、当時教育係だった先輩もその時点で退社していきました

おかげで仕事のやり方や取引先の引き継ぎもなくいきなり即戦力として現場へ放り出されました

もちろん引き継ぎもないので新規で取引先を獲得せよ!という上司の通達と毎月1000万円売上を上げろというノルマを頂きました

冷静に考えるとかなり無茶苦茶な要求です

見積書さえ作ったことのない新人がいきなり売上を上げることができたら、そのスキルを使って起業した方がいいと思います

お察しの通りいきなり結果を出すこともできず営業部の中ではお荷物扱いで肩身の狭い思いもしました

目的金額には達しないものの先輩のフォローなどをしながら成長しようと努力しましたが、入社して9カ月後に二度目の希望退職者の募集とリストラがあり、その場で手を上げて退職を決意しました

この時点で社員は入社時の半分ほどになり、説明会で知った会社とは別物になっていました

あとで人事の先輩から聞いた話しですが、入社前からこのような状態になることは決まっており、新卒採用も諦めようと思っていたようですが求人募集にかけた多額の費用を無駄には出来ず、そのまま入社させたようです

せめて3月の頃にその話を聞いていたらこちらから辞退するような内容で、その先輩にはさすがに怒りのまま叱責したのを覚えています

ちなみにその先輩も私が手を上げた二回目の人員整理で退職しました

そんな苦い経験からもっとやりたい仕事を選ぼうと思い探したのが二社目の会社です

この二社目は一社目がまだ良かったと思わせるような「超」ブラックでした

思った以上に長くなるのでいくつかに分けますね

コロナの影響で今まで対面でやっていたお茶教室が開けていません

また落ち着いたら再開と考えてはいますが、なかなか状況はもとに戻らないようです

お茶教室といっても茶道をするわけではなく簡単なレジメを見ながら気になったことに対して質疑応答をするイベントです

お茶の飲み比べや関連商品の試食、さらにはお土産もついてくるコスト度外視のイベント

早く終息してイベントをやりたい