一人の男の生涯を24時間撮影し続け、放送するナンセンスなテレビプログラムがあった。
その名も『トゥルーマンショー』。

主人公のトゥルーマンだけが、自分の人生が監視され、放送され、自分がスタジオの中で生活していることに気付いていない。

ある日、空から舞台照明が落ちてくる、旅行会社に行ってもはぐらかされるなど、作り物の違和感を感じた彼は、逃亡を試みる。



彼一人が気付いていない、全世界へのテレビ放送。
いや、彼も大人になるまでそこで過ごしてきて、違和感を感じないはずはない。
学生時代に気になっていた同級生と親しくしたとたん、急に親が来て彼女は連れ帰られてしまう。意味ありげな言葉を残して。
ついに再会することは無かった。
自身が水恐怖症で、船で離島を出られないのもあるが、何度も気付く機会はあった。

きっと真実よりも、気付きたいか、気付きたくないかが大事なのだ。
よく思う。
檻は人を閉じ込め監視化に置き、不自由にする枷でもあり、恐怖や未知のものから守ってくれるシェルターでもある。

檻の中は幸せだ。
視聴者を楽しませるドラマとしての苦難はあれど、主人公の生活はある程度保障される。
そこそこの企業にも就職し、妻もいる。嫁姑も仲が良い。

しかし、それが自分で掴みとったものならどれほど良かっただろうか。所詮与えられたものだ。奥さんも愛があるわけではなく役者なのだ。


危険を冒してまで警告してくれた同級生。
また会いたい。
初めて命をかけて現実と向き合ったトゥルーマン。

最初は視聴者側として、トゥルーマンを子供のように見守っていて、手を尽くしても逃げられない彼をコメディのように見ていた。(実際ジム・キャリーが愉快なので仕方がない)
しかし彼が現実を直視し、人に頼らず自分だけを信じ、トラウマにも向き合う彼を見たときは、頑張れと応援していた。

違和感を飲み込んで生きていくのも、それはそれで正解なんだと思う。
しかし正解、不正解かに関わらず、自分で選択した方が人生に後悔は残らない。
間違ってもいいから、自分で選ぶのを止めないこと。
そんなメッセージを受け取った。

他人の選択に慣れてしまうと、心が動く前に頭が判断してしまう。これは必要ない、と。
繰り返すと自分で選ぶことに不安しか感じなくなる。答えが欲しくなる。
受け入れることに慣れすぎてしまった私たちへの警告にも感じた。


ラストで、トゥルーマンは水を克服し、スタジオの端にある空の階段を登って、セットを立ち去る。
そのシーンで、真実に向き合った主人公の話でした、終わりと幕を閉じても良さそうなのに、映画はもう少し続く。
シーンが変わって、『トゥルーマン・ショー』の視聴者が映り、生放送が終わると共に、「チャンネル変えろよ」と相方に言う。

あんなにも盛り上がっていたのに、サッと切り替えて、彼らは次の娯楽を求めてさまようのだろう。
一人の人間の決意や努力が、ただの娯楽としてしか消費されていなくて(行動やきっかけになることも無く)、テレビの娯楽性に寂しさを覚えた。

人のプライバシーを考えず、悪びれず放送を楽しむ視聴者。
そんな姿を映像で切り取ることによって、テレビから与えられたものの善悪を判断せず、娯楽に食い付いている人々へも警告をしているようで。