息を吸うだけで、器官が痛む。
心臓の鼓動だけで、体が痛む。

そんな状態が続くと、もう生きるなと言われている気がする。

体での症状に置き換えるとそんな感じで、私はその時精神的に参っていた。

特別な不幸がなくても心に取り憑くそれは、私を消耗させていき、何もせずに座っているだけでもしんどさを感じさせる。

心とそいつを切り離す何かが必要だ。

座っているだけでもしんどいなら、寝転んだって無駄だ。
せめて気ぞらしし、忘れられる瞬間を作ってあげた方が良い。



だから私は大徳寺に向かった。
昔しんどかった時、「美の壺」という番組を観て、一瞬息を出来ている自分に気付いた。

その時に見て、一目惚れした大徳寺の大仙院に行けば、今の自分も息を出来るかもしれないと。

ただずっと惚れていたのに、今の今まで本物を観に行かなかったなんて、灯台下暗し過ぎて笑ってしまう。



やっぱり憂鬱だった。
でも動けない事は無かったから、駅に辿り着き、とりあえず自分の体を電車とバスに送り届けてもらう。

駐車場脇のトイレに入り、気持ち悪さを感じる。

心がA4用紙の紙で出来ていて、それがくしゃくしゃになったイメージだ。
丁寧に手で皺を引き伸ばしても、真っすぐの紙にはもどらない。痛みも消えない。

ずっと不安や恐怖の残り香で苦しみ続けているのは知ってるけれど、残り香ですらどうすることも出来なくて喘いでいた。


やっぱり来ても変わらないな、しんどいなとぼやきながら、死にそうな足取りで向かった。



大徳寺の境内は広く、塔頭の数も多い。入り口の案内板を頼りに進む。
奥まった所に大仙院はあった。

コロナ禍で観光客もほとんど居ない。
拝観終了まで、1時間か1時間半だったのもあってか、とても静かだった。

拝観料を払い、お茶代を払い、庭へと進む。
そんなに大きな庭じゃないのは知っていたから、そんなに焦らなくても鑑賞しきれるのに。

庭の入り口の廊下には、禅の心を教えるような書籍や、観光客向けのグッズが並べてあり、店番のように住職が座っていた。


その時に、住職に声をかけられた。

最初は何と言われたのか覚えていない。
だけど普通にナンパされていた。

意味が分からなかった。
マスクをしていて目元しか見えない奴をナンパする勇気がすごいと思った。

声をかけられてありがたい気持ちと、マスク外すとますますハズレだよごめんと申し訳ない感情がわく。

住職はこちらに疑問をもたせる暇もなく、当たり前のように個人情報を訊き出していく。 

流石に居住地をぼかして言ったりはしたけれど、大学時代の話もペラペラ喋っている自分がいた。

私が英米語学科出身だと知った住職は、この本の英語版を読みたいからと、洋書を扱っている店がないかだとか聞いてくる。

ダメだ、私の力では会話を止められない。

これじゃ庭を見る時間が無くなっちゃうじゃんと、脳内でレッドランプが点灯し、チカチカと警報が鳴っている。

「ははは、そうですね」と防衛一方になりながら、とりあえず褒められたり訊かれたりを受け流す。

徐々に庭の方に足を向けつつ、とりあえずかわすことに成功した私は、ようやく庭の前に立った。



大仙院は四方の庭にぐるりと囲まれており、蓬莱山に見立てた大岩から流れ出た水が、やがて海(に模した枯山水)へと流れていくように見立てられている。

緑に棲み着いているのだろうか、終始鳥の声が聞こえる。

正直憧れが昂りすぎて、期待値には負けてしまった。

また今日のように曇った心には、美しさが染みてこなかった。

でも感動を与えてくれなかったとしても、私は憧れの庭を見続けた。

一組くらい他の客が入ってきて、すぐ過ぎ去っていった。私はまだ庭を見ている。


その時、住職と喋って、人と繋がって、保留になっていた憂鬱とか絶望感がまたせり上がってくる。

庭を見て私は泣いた。
吐きそうな、最悪な気分だ。

他の客が居ないのを良いことに、落ち着くまで泣いてしまおうと思った。

監視カメラがあるし、住職に聞かれていたらどうしよう。そんな考えが頭をよぎったが、抑止力には弱すぎた。

とりあえず泣いて、何回もぐるぐる回って、正座し直して、庭を見る。

自らの涙で魂も、煩わしさも洗い流されていく気がする。
数時間後にはまた同じ憂鬱が襲ってきたとしても、今だけは涙に洗い流されよう。


落ち着いたのか分からない。でもお茶を楽しむ時間が無くなるじゃないかと、そういうことにはちゃっかりと冷静で庭を出た。


大仙院は、庭を観ながらお茶を楽しむことは出来ないが、別途料金を払うと別室で薄茶とお菓子を頂ける。

お菓子の名は千瓢。瓢箪を模した小ぶりの菓子だった。

受付の女性がお抹茶を点てながら、私に話しかける。
「住職はいつもいるわけじゃないのに、会えて話せてラッキーやったね」と。


ああそうか、会えてラッキーだったんだな。
こういうのもご縁なんだなと実感する。

実は、住職は私の憂鬱と絶望感に気付いていて、軽口を叩いてくれたのかもしれないな、と想像してみる。

もしそうだとしたら本当にすごい。
それは修行による観察眼なのか、人生経験の賜物か。

仮に違ったとしても、声をかけられて悪い気はしなかった。


またしんどくなったら是非とも行きたいし、しんどくなくても人の温かさと庭の美しさを味わいに行きたい。


必ず。