夕方窓を開けると西に沈みかけた太陽の光がベランダを覆う。曇りガラス越しにぼやけていた光の輪郭が鮮やかになる。綺麗で暖かいトーン。

 昔、この時間帯に訪れる色をセピア色の魔法と呼んだ。私が愛したその部屋は、今はもうない。そうだった、もう、あの時間もないけれどあの部屋もない。時折何かの機会に、今も在る場所に、もうない時間の面影を探しに行くことがある。でもあの部屋はもうない。物理的に。そのことを寂しいと思う。でも、それで生きていけないわけでもない。大丈夫なことを知っている。それに初めからなかったわけじゃなくて、存在していたから私の記憶の中にはある。過ぎていったのだ。
 暗くならないうちにベランダの洗濯機で洗濯を済ますために外に出る。サンダルを履いて柵に手をかける。私も西日に染まる。
 ふわっと鼻をかすめた空気は春の匂いがした。新春という二文字が頭に浮かんだ。
 

 先週の今日、年末のその日、それは東京の外れのある電車内で感じた。ふいに車内に入り込んだ春の匂いが私の意識を捉えた。メッセージのようにその春の匂いは、私が今いる地点が生まれ故郷に近いことを知らせるために、あなたは昔ここから出発した人なんだよと伝えるために私の前を通っていった気がした。
 私は乗客の一人として大人しく席に座り、自分はどこの人間なのかを再確認していた。ついさっき通っていった匂いを追い、すなわち五感を再現し、記憶が水面にあがってくるのを求めて、車窓を眺めた。
 

 今日の夕方のこの匂いは、東京のとは違う。新春の匂いではあるけれど、この間の、彼方の記憶に直結するあの匂いとは違った。
 この間私は、一瞬にして、遥かなるニュータウンの外れの公園のさらに裏の沼地のある年の春の日まで旅することができた。それは「川辺にそよ風」という本のような日だった。

 匂いはいつも遥か彼方、時間や場所を超えた風景へと私を運ぶ。

 

 西日がさらに落ちてゆく。もうビルの後ろでここからは見えない。でもそこにいることがわかる。東側の山を照らしているから。屋根や壁に暖かみのあるフィルターがかかる。この街の愛しさを探したくて、私はベランダから夕暮れの景色を眺めた。