清正と三成の対立の原因  | 人差し指のブログ

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「 戦国史談 」

桑田忠親 (くわた ただちか 1902~1987)

株式会社潮出版社 昭和59年7月発行・より

 

 

 

 

 これは、(石田)三成が小西行長と相談して、朝鮮出陣中の加藤清正の行動について 「三罪あり」 といって秀吉に訴え出たことが動機となった。

 

 

 その一は、清正が行長のことを堺の薬売り商人であるといって朝鮮人の前で罵倒したことと、その二は、許可なくして、豊臣の姓を名のり、明国への書状に 「豊臣清正」 と署名したこと。

 

 

その三は、清正の家来の三宅角左衛門の足軽が、明国の正使として釜山にやってきた李宗城の財宝を奪って遁走したことにあった。

 

 

とくにその三が部下の監督不行届であって清正の重大責任とみなされたのは、その事件のために、李宗城が釜山から明国に引き返し、副使の揚方亨(ようほうこう)が正使となって肥前の名護屋にやってきて、秀吉に訴えたからだ。

 

 

そんなわけで、秀吉もこれを国辱とみなし、清正を朝鮮から召還し、伏見城の加藤屋敷に閉居させたのである。

 

 

ところが、ちょうど閏(うるう)七月十二日の夜、伏見に大地震が起こり、閉居中であった清正がさっそく伏見城に駆けつけ、守備をつとめた。

 

 

そのとき清正は、登城してきた三成を中門で制止し、内に通さなかった。

 

 

やがて、秀吉の命令で、清正もようやく三成の入門を許したが、中門を守衛する兵士に向って、「あの、背の低い、わんさん者めが、仕方がない、通してやれ」 と、大声で指図したという。

 

  • 和讒 わざん・わんざん  一方で親しみ、他方で悪く言うこと。讒言。中傷。悪口     デジタル大辞泉の解説より

 

 

 これは清正の家来が書いた清正の一代記 『清正記』 や 『続清正記』の伝えだから、三成のことをことさら感情的に非難するのも当然であって、歌舞伎の 『地震加藤』 によって、この話がさらに誇張され、清正は誠忠の臣であり、三成は奸佞(かんねい)の臣ということにされてしまった。

 

 

その後、清正は徳川家康らの取りなしで、ようやく秀吉から罪を赦されたが、かれが朝鮮から召還されて閉門を命ぜられたのは三成の讒言(ざんげん)によるものと思い込み、三成のことを深く憎んだという。

 

 

 しかしこれは、自分の過失を棚にあげての逆恨(さかうら)みというもので、清正がいかに理性に乏しい感情的な武将であったかを物語るものといえよう。

 

(略)

 

 三成はすぐれた奉行人であったため、その方面の仕事に追われ、実戦の場数を踏むことが足りなかった。三軍を叱咤する経験に乏かった。

 

 

それに、あまりにもマジメ人間で、人との妥協性と包容力に欠けていた。

 

白黒のケジメをはっきり つけすぎる男であった。

 

 

そこで、武功を笠に着て威張りまくるような豪傑肌の武将から見ると、妥協性のない、話せぬ奴、唐変木(とうへんぼく)として、忌み嫌われたのである。

 

 

 

 

 

                        3月11日、奈良県庁付近で

                                    挨拶をする

                                     久し振り

                                      振り返る