「 関東人と関西人 二つの文化、二つの歴史 」
樋口清之 (ひぐち きよゆき 1908~1997)
株式会社PHP研究所 2015年6月発行・より
一例として承平、天慶の乱 (935~940年)をあげてみよう。
この乱については、藤原純友(すみとも)とか平将門(まさかど)という勇者が反乱を起こしたというだけでは文学的でしかない。
純友、将門ならずとも、あの時期は反乱が起こるべき時であった。
日本の気温は、六百年単位で寒波がくると考えられていて、天明三年(1782年)から六年までは日本の寒冷期の極限であったが、そのちょうど六百年前が平安時代の中期にあたることになる。
つまり、天明の寒冷期と同じような冷害が平安のその頃にあって、東日本も西日本も生産が極端に低下する。
ついでにいえば、重ね着文化 十二単衣(ひとえ)という過剰装飾の衣服はこの頃からできるわけであるが、それも寒冷化のせいである。
道長の 『御堂関白日記』によると、当時の人口の五十四パーセントが結核で死んでおり、その原因は寒さからの風邪によるものと考えられる。
彼の四十年の日記では、その半分以上彼自身が風邪をひいているのである。
さて、東日本では牧草が枯れて、当時の税である馬を出すことができない。
それを朝廷が無理に徴発するから陸奥の安倍氏が、出羽の清原氏が反乱を起こす。
他方、源氏の関東では騎馬を持って生活をしている人々がいて、これが東
北の馬を欲しがる。
そこで朝廷の命令を受けて、先頭に立って遠征し、馬を奪ってくる。
これが東日本における寒冷期の事件で、その発端が平将門による天慶の乱である。
将門は関八州(かんはっしゅう)の零細農民の苦境を助けるため、いろいろな救済手段を打っている。
今の野田市の北にあたる地で、農民たちに開墾をやらせ、水利を計って水を引いていることもそのひとつである。
しかし、気温が下がっているため、水を引いても冷たく、効果はあがらない。
こうして生産力がダウンしているときに、叔父の国司が悪政を行うので、そこで平国香(くにか)を攻め、これが承平の乱となって行く。
3月9日の奈良公園
中国人観光客が消えたかわりに欧米人が多くなりました。