「 逝きし世の面影 日本近代素描 Ⅰ 」
渡辺京二 (わたなべ きょうじ 1930~)
葦書房有限会社 1998年9月発行・より
神田ニコライ堂の創設者として知られるニコライ(本名イワン・デミートリエヴィチ・カサートキン 1836~1912)も、メーチニコフに はなはだ近い見かたをしている。
「片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている
考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。
・・・・民衆について言うならば、ヨーロッパの多くの国に比べてはるかに
条件は良く、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはず
だ。
ところが諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われ
ていた秩序になお はなはだしく不満であったというのだ !」
(略)
ニコライは、日本の民衆は非常に恵まれた状態にあるのに政府に文句をいう。
そしてそのような言い分が口にできるということが彼らが自主的であることの証拠だ、と言っているのだ。
彼は1861(文久元)年、ロシア領事館つき主任司祭として箱館に来た。
右の文章は69(明治2)年、休暇をえてロシアへ帰ったときに書かれたもので、あくまで徳川末期の北海道での見聞にもとづいている。
このような証言は単独で孤立しているならともかく、他の多くの証言と重複・一致している以上、とうてい事情のわからぬ外部者の誤信としてしりぞけることはできない。
ニコライの見た日本民衆は、支配者の前にひれ伏す隷従の民ではなかった。
それならば、例中の 「下におろう」 と呼ばわる大名行列はどうなるのか。
オイレンブルグ視節団のベルクは悪名高い大名行列への平伏について、たしかに先触れは、 「下にいろ」 と叫ぶが、実際の平伏シーンは一度も見なかったと言っている。
というのは民衆が行列を避けるからで、彼の見るところでは彼らは 「この権力者をさほど気にしていないのが常」 であり、「大部分の者は平然と仕事をしていた」。
またスミス主教のいうところでは、尾張侯の行列が神奈川宿を通過するのに 二時間かかったが、民衆が跪いたのは尾張侯本人とそれに続く四、五台の乗物に対してだけで、それが通り過ぎたあとでは、 「跪く必要から解除されたものとみなして、立ち上がって残りの行列を見ていた」 とのことである。
英国公使アーネスト・サトウは1872(明治5)年日光を訪れ、さらに南方の山岳地帯に踏みこんだが、ある寺では集まった村人から 「ここを通る初めての外国人だということで、『シタニロ』 やら 『カブリモノヲトレ』 やらの号令が示されるなど、大変な敬意をもって迎えられた」。
裃をつけた村役人の先導で先に進むと、子どもたちが 「まわりに木以外の何もないのに」 シタニロと叫びながら先払いしてくれた。
子どもの遊戯化した 「下にいろ」 のかわいさでわかるように、貴人への平伏は民衆にとって屈辱ではなく、わずわらしいこともあるが、うらさびしい山村をときに賑わせてくれる景物だったのだ。
村役人の裃姿には、貴人を迎えた彼らの心のたかぶりが表われている。
この 「下にいろ」 を含む歓迎に、人なつかしい村人の心を読みとれぬものは、日本民衆の心奥と ついに無縁でしかあるまい。
12月21日奈良公園にて撮影