幕府の情報収集(隠密と赤穂浪士と海外情報) | 人差し指のブログ

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「 江戸時代と近代化 」

大石慎三郎 (おおいし しんざぶろう 1923~2004)

株式会社筑摩書房 1987年12月発行・より

 

 

 

 まず海外情報ですが、江戸時代は徳川幕府が一応中央政府的な形をとりまして、外国には幕府のみが これに接触したので、海外情報については、かなり特異な形をとっていたとおもいます。

 

 

鎖国というのは何かについては、いろんな説がありますが、幕府による貿易の利益の独占体制であるという考え方がひとつ、海外情報の独占体制であったということが もうひとつあります。

 

 

この点は重視する必要があるでしょう。

 

 

幕府はご承知のように、西洋諸国の中 オランダにだけ日本との接触を許可しました。

 

 

その反対給付として、海外情報の提供義務を与えております。

 

 

提供されたその海外情報は 「和蘭陀風説書」 と普通呼ぶドキュメントになっています。

 

 

幕末段階、海外情報が非常に厳しくなりますと、一般の 「風説書」 だけでなく 「別段風説書」 という、特別の海外の情報提供を求めました。

 

 

 ですから、幕府が握っておりました海外情報というのは かなり詳しかったと考えていいのです。

 

 

たとえばアヘン戦争などの時期になってきますと、東洋に配置されている西洋諸国の軍艦の種類、数、その軍艦にどれだけの大砲が何門 積まれているかというようなことは皆その 「風説書」 に載っております。

 

 

こうして幕府はかなり現実的な海外情報を握ってはいるのですが、これは幕府の中でも もっとも機密の事項でしたから、逆にいうと、幕府が独占していた海外情報のくわしさと 諸大名以下庶民の持っている情報との 

あまりにも大きな落差が開港をめぐるトラブルをひきおこすのです。

 

 

もう少し情報公開していたら、あの段階、幕府があれほど苦労をしなくてもすんだでしょうし、また安政の大獄というような悲劇も起こらずに済んだと思います。

 

 

情報というものの持つ意味というか、使いかたの重要さということを考えさせられます。

 

 

 

 つぎに領主クラスの間での国内情報の収集手段を見てみましょう。

 

 

一番よく出てくるのは隠密による情報収集でございます。

 

 

幕府の場合 服部半蔵以下、伊賀者の集団を抱えておりまして、これが情報を集めてくるということはよく知られています。

 

 

 正保年間、1644年ですが、幕府が全国の大名の城構えとそれに伴う城下町の絵図を作っております。

 

 

俗に 「正保の城絵図」 と言いますが、全く非公式に幕府の隠密がひそかに情報を集めたものを集大成したものです。

 

 

それから元禄三年に 『土芥冠讎記』 という本が作られておりますが、これは幕府が全国に隠密を派遣しまして、諸大名の領地の豊かさの度合いと、支配者である大名の人物評定の資料を集めたものです。

 

 

非常に詳しくて面白い資料で、たとえば忠臣蔵の発端の事件などは、この記録によると 俗に言われていることとは正反対になる・・・・・。

 

 

浅野内匠頭(たくみのかみ)は大変純粋な殿様で、吉良義央(上野介)が大変強欲で賄賂を取り立てたというのが一般の説ですが、この調査書では、浅野内匠頭について、領地こそ豊かな一級の土地であるとほめていますが、御本人につきましては、賢い人だが、女とばかり たわむれて一向に政治などは見たことがないと書いているのです。

 

 

 ある程度頭は切れるのですが、やはりかなりの我儘な人であり、この事件を起こしたのは そういう彼の性格の欠陥が一因だったと思われます。

 

 

大石内蔵助の評価も良くありません。

 

 

ちっとも主君を戒めるというようなことをせずに、内匠頭が女と遊んでいるのを知らん顔をして見ているというようなことを書いています。

 

 

やっぱり彼は昼行灯(ひるあんどん)であったのです。(笑)

 

 

こういうような調査を何度もやっていまして、それが幕府の一つの手掛かりになったようです。

 

 

 

 

八代将軍吉宗は、幕府の隠密制度のほかに、自分独自の隠密をもう一つ持っていました。

 

 

情報好きだったわけで、彼が将軍にまでなるについては、かなりの情報操作をしていたでしょう。

 

 

 諸大名のほうの隠密制度は幕府のものほど はっきりしませんが、浅野内匠頭が切腹を命じられて、赤穂城が引き渡される折りに、家臣たちがどう反応するかということについて、岡山藩などはいち早く隠密をその赤穂城下に派遣して、藩士連中の動きをつかみそれを幕府に報告しています。

 

 

 隠密の使い方はいろいろありました。

 

 

水戸の徳川斉昭はかなりな野心家で、幕政に大いに興味を持ち 天保の改革をすすめていた老中水野忠邦の動向を自分のお抱えの者に探らせています。

 

 

たまたまその隠密の一人が 「水野忠邦という人はたいへん女好きである。そこが弱点だ」 という報告をしたところ、斉昭は 「馬鹿もの。女の嫌いな男などいるか。つまらん報告をするな」 と叱っている。(笑)

 

 

ともかく手持ちの隠密をかなり使って、彼の政治の手掛かりにしていたようです。

 

                                     

 

 

2017年9月3日に 「三井家が幕府にスパイを入れた理由」 と題して谷沢永一と大石慎三郎の対談を紹介しました。コチラです。

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12314196253.html?frm=theme

 

 

 

 

                   奈良公園の猿沢池付近にて6月9日撮影