「 嫉妬する人、される人 」
谷沢永一 (たにざわ・えいいち 1929~2011)
株式会社 幻冬舎 2004年8月発行・より
新聞、雑誌、出版界などにおいても、見えざる嫉妬は強いものですから、嫉妬をなるべく逸(そ)らすよう意を用いることが肝要でしょう。
かつて、『クイズダービー』 というテレビ番組がありました。
学習院大学の篠沢秀夫教授が出演していましたが、彼はある時期で下ろされてしまったのです。
「留学しなければならないから」 という理由でした。
学習院は私立大学ですから、彼はむしろ広告塔として役に立っていたはずです。
ところが、そうはいきませんでした。
水面下でどんな感情のもつれが生まれていたのか、私には知る術がありません。
私の在籍した関西大学では、十年ほど前にこんなことがありました。
経済学部の助教授が 『文藝春秋』 に文章を書きました。
関大の経済学部の教員で 『文藝春秋』 に寄稿した第一号です。
ところが、それを読んだ他の教授連中から、「けしからん、学問を蔑(ないがし)ろにしている」 という非難を浴びることになったのです。
そんな騒ぎがあったおかげで、助教授は教授への昇進ができませんでした。
彼はしかたなく他学部へ転出して、そこで教授になりました。
それは、いまでも語り草になっているほどの大騒ぎでした。
男同士の嫉妬の罠(わな)は、本人をそこまで追い込んでしまうことを、肝(きも)に命じておくべきでしょう。
「 僕のうつ人生 」
谷沢永一
株式会社 海竜社 平成21年2月発行・より
本来、活字メディアの人間である私に、まったく違う仕事が持ち込まれた。
(略)
大阪毎日放送からラジオの仕事が舞い込んだのである。
毎週一回、土曜日の正午前の十分間に私のラジオ番組ができた。
「谷沢永一のトークピア」 というタイトルで、フリーのアナウンサーを相手に世相や古い伝統について、その由来を話すというものだった。
それが三年ほど続き、昭和五十八年秋からは、大阪読売テレビの
「おもしろサンデー」 という生放送番組にレギュラー出演することになった。
(略)
それは私にとって、短時間でポイントをわかりやすく話すといういい修練になった。
結局、この番組は足かけ八年出演したが、その間、一度も休むことはなかった。
それだけ長くテレビに出たら、ずいぶん儲かったでしょうという人もいるかもしれないが、当時 (今もそうだと思うが) の大阪のテレビ局というのは、信じられないくらい出演料が安かった。
スーツやネクタイなどもすべて自前だったので、結果的には、むしろマイナスだった。
しかし、テレビに出たおかげで関西地方で顔が売れた。
中でも日曜日の晩にお店が休みでテレビを見ているホステスさんたちに顔を覚えられ、北新地あたりを歩いていると、「先生、私、見てるわよ。がんばってね」 と、あちこちから声をかけられるほどだった。
(略)
また、まだ関西大学の教授だったため、同僚教授から嫉妬されもした。
だいたい大学教授でいちばん嫉妬される原因になるのは、テレビで顔が売れることである。
自分の夫がどんな本を出そうと、どんな論文を書こうと、その奥さんは関心がない。
ところがテレビに出ると、それを見ていた奥さんが、
「あれっ、あの人、あんたとこの学校の人やないの。あんたへは、なんでお呼びがかからへんの?」 といいだす。
男としては、これほど嫌なことはない。
当時、経済部長だった人物が学長室を訪れ、「谷沢君に一刻も早くテレビ出演を止めさせろ」 といったという。
もちろん、それによってテレビ出演に支障が出たわけではないが、思い返せばおかしな話である。
2016年7月4日に 「東京大学の学者の嫉妬」 と題して 谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12176457185.html
奈良には土塀がよく似合う。奈良公園にて昨年12月24日撮影