南蛮交易と「オランダ商人の屈辱」 | 人差し指のブログ

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「 日本人の西洋発見 」

ドナルド・キーン ( Donald  Keene 1922~) / 訳者・芳賀徹

中央公論社 昭和43年12月初版・昭和55年8月8版より

 

 

 

 広大な地域におよぶオランダ人の冒険の動機となったのが、この 「利得への恋」 であったが、在日のオランダ商人たちにもこの利得欲があったからこそ、かれらはつぎつぎに加えられる屈辱に耐えることができたのである。

 

 

すでに平戸時代からかれらは、辞を卑しくしておのが首と商売を救うことにつとめた。

 

 

建てたばかりの倉庫の礎石に西暦の年代が入っていたのを役人に見つけられ、役人の怒りを鎮めるためにはその倉庫をこわした、というようなことまであったのである。

 

 

出島の方が平戸よりもよいかもしれぬ、と思ったのもつかのま、オランダ人たちはやがて、ここで今後どんな風に暮らしてゆかねばならぬのかを思い知った。

 

 

彼らは要するに囚人だったのである。

このちっぽけな島の二つの通路を行きつ戻りつすることしか許されず、たえず監視され、番をされ、スパイされている身の上だったのである。

 

 

年に一回、春には、商館長と数人の館員が江戸に上がって、将軍に贈物を献上し、臣下としての忠誠を示さなければならなかった。

 

 

一六九一年(元禄四)と九二年の江戸参府の様子が、このとき商館に勤務していたドイツ人の医師エンゲルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer,1651-1716)の 『日本誌』 のなかに記されている。

 

ケンペルはこう語っている。

 

 

     ここで一時間あまりも待ち、その間に皇帝が謁見の間に出御し終

    えられると、摂津守と二人の奉行がやってきて、われわれをそこに

    残したまま公使だけを皇帝の御前に導いていった。

 

    公使が彼処にいたるや否や、かれらは大声で 「オランダ・カピタ

    ン」 と叫んだ。

 

    それは公使に近くに寄ってお辞儀をせよという合図であった。

 

    そこで公使は、順序正しく並べられた献上物と皇帝の玉座の間の、

    あらかじめ指示された場所まで手と膝で這ってゆき、跪(ひざまず)

    いたまま額を床につくまで下げてお辞儀をした。

 

    そしてただの一語も発することなく、蟹のように這ったまま後ずさりし

    てきた。

 

 

 将軍(これをケンペルは「皇帝」と呼んでいる)はこのような形式だけでは満足せず、オランダ使節を再度の引見に召しだして、その席上、実に多種多様の事柄について訊問させた。

 

 

そしてこの楽しみを十分味わい尽くすために、

「かれはわれわれの礼服であったカッパ(マント)をぬぐように命じ、つぎにわれわれの全身が見えるよう直立せよと命じた。

つづいてこんどは歩け、立ったままでいよ、互いに挨拶せよ、踊れ、跳ねよ、酔っぱらいの真似をせよ、片言の日本語をしゃべれ、オランダ語を読め、絵をかけ、歌え、マントを着たりぬいだりせよ、と命じた。

この間(かん)われわれは最善を尽して皇帝の命に従い、私は踊りながら高地ドイツ語の恋歌も歌った。

このようにして、またこの他にも数えきれむほどの猿芸をあえて演じて、われわれは皇帝と廷臣たちの気晴しに貢献せねばならぬのである」

 

 

 オランダ人たちが、利得の望みからこのような侮辱にまで進んで応じたのは、もちろん日本においてだけにかぎらなかった。

 

 

中国でも、一六八五年、北京を訪れたオランダ通商使節は、皇帝の前でまず三度、ついで九度叩頭(こうとう)の礼をすることをためらわなかった。

 

 

東インド会社の利益になることならどんなことでも行わなければならぬ、というのがこれらオランダ商人の考えであった。

 

 

かれらは自分たちの服従行為を正当化するために、日本のどんな強大な諸侯でも将軍の前には平伏抵当するとか、中国の皇帝には遠国の王侯が恭順の意を表しているとかの事実を、あげることもできた。

 

 

だがここで注意しなければならないのは、オランダ以外のヨーロッパ諸国の代表は、このようにみずからを卑しめる行為(とかれらは思った)に、かならずしもいつも応じはしなかったということである。

 

 

たとえばあるとき北京宮廷に遣わされたロシア使節が、「われはただ神の前に跪くのみ」 という理由で、皇帝に即答の礼をとることを拒んだことがあった。

 

中国宮廷側は立腹し、使節は相応の罰を受けたのであった。

 

 

 

 日本のオランダ人に対する扱いは、歳月が流れキリスト教への怖れが少しずつおさまるにつれ、いくらかは寛大になっていった。

 

 

しかし、はるかのちの1804年(文化元)になっても、その年ロシア使節を長崎まで乗せてきた船の船長クルーゼンシュテルンにとっては、オランダ人のすることは言語を絶した屈辱的な、野蛮な行為と思われたのである。

 

「自由への愛によって政治的独立をかちえ、さまざまの偉業によって名声を得てきたヨーロッパの文明国民が、利得の願いからこれほどまでに身を卑しくして従順敬虔に、一群の奴隷どもに忌むべき命に服するとは、なんと遺憾なことであろうか」

 

クルーゼンシュテルンには言い表す言葉もなかったのである。

 

「商館長殿、お役人様に御挨拶なさい」 と通詞に命令されると、商館長はほとんど直角に身体をかがめ、お役人がようやく普通の姿勢にもどってよいと言ってくれるまでは、そのまま両腕を垂れて待っていなければならなかったのである。

 

 

ロシア人をも同じような礼法に従わせようとして一度失敗すると、日本人はもうこの点についてはこれ以上面倒を言いださなかった。

 

だがそのかわり    とオランダ人たちはきっと言いたてたにちがいない 

     ロシア人たちは空手(からて)で引きあげていった。

 

 

 

 

朝霞(埼玉)の花火大会  8月4日  中央公園にて撮影