江戸時代の本屋の数 | 人差し指のブログ

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『 メディアの展開        情報社会学からみた 「近代」 』

加藤秀俊 (かとう ひでとし 1930~)

中央公論新社 2015年5月発行・より

 

 

 

 そのようにさまざなな業態をふくめて、ともかく 「本屋」 として社会的に認知されていた店はいったいどのくらいあったのだろうか。

 

 

慶長から文久、つまり十七世紀はじめから十九世紀半ばまでの二世紀半ほどのあいだの数字をみると初期には京都を中心とした十一軒ほどの書肆があっただけなのに、嘉永年間に最盛期をむかえて全国で百二十軒ほどに増加している。

 

 

この業界は、栄枯盛衰はなはだしく、創業してもかぎらず、つぎつぎに誕生しては消滅する、という運命をたどった。

 

 

さきほどみたいくつかの京都の古い書肆は例外的に二百年以上の歴史を誇っているけれども、出版業は浮沈がおおく、たとえば文政十一(1828)年には全国で百三十六の本屋が創業し、百十五が廃業している。

 

出版は 「水もの」 といわれるゆえんである。

 

 

 だが、その市場規模は確実に年々拡大した。

 

元禄九(1696)年に刊行された 『増益書籍目録大全』 は当時の書籍市場に出回っていた本の総カタログで、そこには合計八千点にちかい本のタイトルが収録されている。

 

 

控えめの計算で一種類あたりの発行部数を五百部としても全国で四百万部ほどの書物が生産され、流通していた、という勘定になる。

たいへんな量である。

 

 

 それを取り扱う 「本屋」 は各地、とりわけ京都、大坂 江戸の三都で

繁栄をきわめた。

 

 

さきほど京都の書店が寺町通に目立っていたことをのべたが、

それとおなじように大阪では心斎橋筋に書店があつまっていた。

 

時代はぐっと下がって寛政年間のことになるが 『摂津名所図解大成』 はその情景をこういう。

 

    巨商の書肆多く、舗前(みせまえ)には新古の諸書をならべ、

    朝より注文を糶童好(せるこども)かまびすしく、刷印(はんすり)巨蔵に

    入りこめば摺本背負うて出る部面師(へうしゃ)あり、表には諸国へ

    本櫃の荷つくり、内には注文の紙づつみ、帳合する、管家(ばんとう)

    紙撰する新隷(しんざん)、客を迎える甲幹(ばんとう)、あるいは古写本

    さがす好事客あれば滑稽本(しゃれほん)を買う酔客あり。

 

筆者の暁鐘成(あかつきのかねなり)は木村兼葭堂(きむらけんかどう)とも親交があった大坂の戯作者。この記述からも推測できるように、書店や出版、印刷業が軒をるらね、書物をもとめるひとびとで心斎橋筋はにぎわっていたのだ。

 

さらにあとになるが、天保六年、つまり十九世紀はじめの心斎橋の様子をえがいた通俗書にもこんな会話がのこされている。

 

    心斎橋筋のたいそう本屋のあるところでございやす・・・・

    江戸には却つてあのやうに、べたべたと本屋の軒をならべてゐる

    処はござりやせん・・・心斎橋筋は五六町ばかりが内に、

    四五十軒もありやす・・・。僅か五六町の間に此位書肆のある処は、

    何方にもありやすめい・・・・実に大都会の地でありやす。

 

同業者がおなじ地域にあつまるのはその職業的便宜から当然のことで、江戸でもおよそ三つの地区に本屋が集結した。

 

 

すなわち、日本橋通本町から神田にかけての通町組(とおりちょうぐみ)、日本橋西河岸町から浅草にいたる中通組(なかどおりぐみ)、そして日本橋南一丁目から芝神明あたりまでの南組。

 

 

いずれも日本橋を起点にして三方に放射線状につらなる地域である。

 

ここに合計六十軒ほどの本屋があつまった。

 

 

通町組には京都の名門出雲路や川柳本の出版で有名な星運堂など二十あまりが名をつらね、中通組には蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の耕書堂をはじめ十軒が所属していた。

 

 

平賀源内(ひらがげんない)、大田南畝、さらに杉田玄白(すぎたげんぱく)などの著書を出版した須原屋一統は南組。

 

こっちも二十軒。それが競争しあっていたのである。

 

 

このなかで須原屋や蔦屋重三郎については、また別項で紹介することになるが、三都それぞれに十八世紀なかばには本屋街が形成されていたのであった。

 

 

 

 

光が丘公園(東京・練馬)にて  3月31日撮影