雑兵たちの略奪が酷すぎる | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

「戦国の群像」

小和田哲男 (おわだ てつお 1944~)

株式会社学習研究社 2009年6月発行・より

 

 

この点で注目されるのは田村憲美氏による 「本土寺過去帳」 の分析で、その研究成果を 『日本中世村落形成史の研究』 でまとめている。

 

(略)

 

しかし、私自身、この田村氏の研究で一番びっくりしたのは、

もう一つの点であった。

 

 

「本土寺過去帳」 の物故者を死亡した月ごとに統計をとると、

四月から六月まで死亡者が多く、七月から十二月までは少ないという、

季節ごとにはっきりしたちがいがあったことである。

 

 

しかも、四月から六月は食糧が収穫できないママ端境(はざかい)期にあたっている。

 

 

年貢を払い、残った食糧を食べつくしてしまった百姓が餓死していったという現実が明らかにされたのである。

 

 

そして、このことと、雑兵たちの戦場における 「乱取(らんど)り」 が結びついてくることになる。

 

 

最近の藤木久志氏による 『新版雑兵たちの戦場』 『飢餓と戦争の戦国を行く』 などの一連の研究によって、これまでの戦国合戦のイメージは大きく変わってきた。

 

 

 

それを、わかりやすくひと口で表現すれば、

「口べらしのための出稼ぎ戦争」 ということになろう。

 

 

合戦に従軍する雑兵たちは、自己の栄達が目的ではなく、

戦場で略奪を行い、それを収入とし、飢えをしのいだというのである。

 

 

 

その略奪行為を当時の表現で 「乱取り」 という、

大名も 「乱取り」 を公認していたのである。

 

 

 

雑兵の定義は簡単ではないが、下層家臣としての足軽や、寄親寄子制でいう寄子、すなわち地侍も含み、また、百姓大量動員の場合の百姓や、

陣夫として徴発された者も含んでおり、かなりの数になる。

 

 

軍勢の圧倒的大多数は雑兵だったのである。

 

 

戦いがある程度、味方の勝利となったとき、

「乱取り自由」 の許可が出て、雑兵たちは略奪をはじめることになる。

 

 

その対象は、敵地の百姓の家に押し入って家財道具を奪い、貯えられていた米などの食糧を奪うことはもちろん、人間もさらっている。

 

 

雑兵のかなりの部分は百姓なので、百姓が敵地の百姓屋を襲い、

物と人を略奪するという図式である。

 

 

藤木氏の一連の研究によって、越後の上杉軍が関東を荒らしまわり、

「乱取り」 で得た人間を売買するための市までたてていたことが明らかになっている。

 

 

九州では、「乱取り」 にあった人間が奴隷として東南アジア方面に売られていったという報告もある。

 

 

戦国時代は、百姓にとって、文字通り、生きるか死ぬかのきびしい時代であった。

 
 
 
 
 
昨年11月27日 平林寺(埼玉・新座)にて撮影