昭和十六年十一月、つまり戦争の始まる一ヵ月ほど前のある日、クラスのひとりが教室に入ってくるなり、だれにというわけではなく、
「電車の中で、スパイのことばなんか、やめてしまえ、とどなられ、ビンタをくわされた」 と言ったから、どうしたどうしたとなる。
彼の言うところによると、その日の予習ができていなかったので、省線電車の座席で辞書をひいて書き込みをしていた。
『スケッチ・ブック』 というテクストである。
英語の本とわかると、前に立っていた人品いやしからざる中年の紳士が突然、さきのように叫んで、なぐってきた、というのである。
きいたものは、それにはっきり腹を立てることもなく、”ひどいなー” ”いやだね” などとつぶやいて各自の席に戻った。
みんななんとなくみじめであった、そういう自分たちがやり切れない。そういうことをするのが、教養もありそうな人間であることが、とりわけわれわれにはこたえた。
英語を攻撃、いや英語を使う人をにくむのは、なにもこの神士に限らない。
滔々たる天下の大勢だったのである。
大百科事典の版元社長で文化人と言われた人もことあるごとに英語排斥論をぶった。
もっともそれは、本音から出たものではなく、どこか権力に媚びていたにちがいない。
信念とか思想などというものははじめからなくて、時勢に便乗して聞いたようなことを口にしていたに過ぎなかったのか。
戦後、時を移さず、この社長が世界平和を唱えだしたのだから、おもしろい。
これも、やはり時勢におくれまいとしたポーズだったのだろう。
こんな浅薄な人間がいくら声を大にしても世界平和なんか実現するはずがない。
それは、ほんの一例にすぎない。この間まで鬼畜米英を叫んでいた連中が、戦争に敗れると、とたんに豹変、米英礼賛の目の色を変える。
「これからは英語ですよ。あなた方は先見の明があったのです」
などと言われても、返事に窮する。
「中年記」
外山滋比古 (とやま しげひこ 1923~)
株式会社みすず書房 2006年12月発行・より
4月22日 光が丘 夏の雲公園つばき園(東京・練馬)にて撮影