思い出したように時々このブログを見たくなる。

何かを書きたいけれど、いつもその力がなくて、書き出してはその途中で断念。

いつから始めたんだろうなあと見てみると、今から12年前が初投稿だった。

あの頃、ただ必死だった気がする。

あの頃の私は何を考えていたんだろうと懐かしく読み返してみた

全てが今であるかのようによみがえってきて、ちょっと泣けてきた。

悲しくてじゃなくて、ただ懐かしくて。

あの頃ここでよくはなしをしていた人たちの姿は見えない。

みんなもうやめてしまったのでしょうね。

あと1か月も立たないうちに私は60代に突入する。

昔でいえばもう老人?のように思えていたけれど、今の60なんて若いなあ、こんなに元気だもの。

先日近所の方たちと話していてもう60になるよと話したら、その方はもうすぐ70だって。

あんなにかわいらしく若々しいのに・・やっぱり今の60,70は若いと思える。

40代、50代の子育ての時期を終えて、これから私は自分の人生を考えるときになった。

遊びたい気持ちを半分あきらめて仕事に邁進して、でもこれからも仕事は続くだろう。

元気に動けてあと10年、やりたいことをやらないと動けなくなってしまう。

良からぬことを考え始めている。

でも、責任ある今の自分、無茶はできない。

そこをどう折り合いをつけるか。

そして金策をどうつけるか。

ふふ・・

大きな野望だこと。

これからの夢

幼児さんまである保育園を作ること

キャンピングカーで日本中回ること。

どれも実現が難しいけれど、いいの、それが夢なんだもの。

キャンピングカーのほうは、車を改造して何とか寝るところと調理するところとを確保できれば

あとはキャンプ場やインターで寝られるからね。一人でテントが張れないからね。

安く改造できる方法を誰か教えてほしいなあ。

そんなことを子供たちに行ったら、また~って言われるかな。
このところ子供食堂なあるものが全国に広がっている。

確かに淋しく孤食を味わうより誰かと食べた方が、コンビニ飯より暖かい手創りの方がいいだろう。

やさしい人がたくさんいる

子どものことを心から心配し考えてくれる人がたくさんいる。

しかし、私はこのニュースを見るたびにむなしくなる。

母子家庭がここで食べることにより貧困を免れているといい、淋しい夜の生活を強いられて

いる子供たちがここに集まって楽しく過ごすという。

それでいいのだろうか。

善意に救われても子供にとっての家庭がどんどん意味のないものになりはしないか

親子でいる必要がどこにあるのだろうか。

お互いただ寝に帰る家にいるだけになりはしないか

仕事をしているんだから仕方がないと割り切れるのだろうか

それは母親が輝くと言えるのか

子どもが輝いているのだろうか

仕方がない、仕方がない、どこに言っても仕方がない

それでいいの?

子どもは何を思って育つのだろう。

政府がやるべきことは、輝く女性をたくさん生み出したければ、その女性の家庭を

そこにいる子どももともに輝ける存在、輝く気持ちを持てるようにしなければ、

何も言葉を発せず、言うことを聞くしかない子供

保育園がどんどん延長化になる

見ていてくれる人がいるという安心感もあるだろうが、今まで早く帰れていた環境が

あっても帰りづらい環境へとなってきている

そしてこの善意の子供食堂がますます帰らなくてもよい環境へとなりはしないか

子どもは地域で育てる

親以外のいろいろな人とのかかわりを持ち、いろいろな支援を受けながら育つ

私もそう思っている

でも、その根底にしっかりとした親子のきずなが構築されなければならないはずなのだが

ますます親子が分離される中、関わりの薄まる中でそれが構築されるのだろうか

忙しい親をみて感謝して育つと思うのか

それは親の傲慢な気がする

子どもは我慢してくれるかもしれない

その我慢をどこで解消するのだろうか

その淋しさはどうやって解消されるのだろうか

おなかは満たされ一時的には人といることで楽しい時間も持てるかも知れない

でも、それで助かった~ではすまない

子供食堂が増え続ける中、子育て中の保護者が子供と食事をとれるような体制を整備して

いかなければいけないのではないだろうか

子供食堂が悪いのではない

ただ、そんなものが必要でなくなる世の中にならないといけない。

お母さんとご飯が食べたいと言ってくれる時期など人生の中で、そんなに長くない

80年のうちの4分の1にもならない

小学生までは親がそばにいてくれることで安心する時期

その先の多感な思春期は親が家にいなければならない時期

いなくてもいい時期などないはず

それが崩れた時、

どんなに職場で輝いたとしても、家庭が崩壊していく

子どもの心が育たない

親は子供からの信頼を得にくくなる

善意ですませてはいけないと危機感を持ってしまう

人の生き方が変わってきた

一人一人は仕方がないと割り切れない思いを持ちながらも仕方がない仕方がないと

生きていくしかない

でも、それを必要と感じられず、それを思いやれない社会になってきているのは、

悲しいかな、人という種が衰退へと向かっているのだなあと感じる。

子どもを守り育てられなくなった種は滅亡するしかないのだから

どんな生き物であっても、人間だけは大丈夫などあり得ない。

これまでに色んな生き物が絶滅していった

人間だけはあり得ないとどうして言えるのか

心の育たない人間を多く生み出し、愛に満たされることのない人間を大量に生み出し

戦争や凶悪な犯罪にあふれるのかもしれない

どのみち子育てしなくなった種に希望はあるのか

個人の努力ではなく、国が親子というもののわずかな時間の大切なものを大事に保障

していかなければ、本当の意味で国を繁栄させられる豊かな人材は作れないだろう

言いたいことがたくさんありすぎて、あれもこれもと並べ立ててしまったが、

助けてあげればいいだけではなく、守ってあげなければならないことも沢山あると思う。
今年は育児時間を取らないで復帰するという方が数名おられました。

働き始めてすぐに18時半までとなる。

今まで家庭の中でゆったり過ごしていた乳児にとっては、かなり急激な変化になる。

子どもを保育園に通わせながら働き続けるということは簡単なことではないが、

それを知ったうえで結論を出しているのだと思う。

育休を削っての復帰が当たり前になっている。

育児時間を取らないで復帰する。

どちらも子育てをする者の権利で得られるものなのだが、どうやら企業によっては

それらを取得することが、これからの仕事に有利にはならず、権利を取得するものは、

駄目な人というレッテルを張られてしまうところもある。

キャリアに傷がつくと言われたようだ。

仕事を干された先輩ママを目の当たりにし、取ってはいられないと思ったのだという。

かなり厳しい生活の始まりとなるだろうが、言葉をつかえない子供たちの声なき声を

しっかりと受け止めてくれるだろうか。

無理そうだったらあとからでもとれるという。

それは、自分がつらかったらなのか、子供の様子を見てなのか。

保育士は、園にいる間の子どもを安心して楽しく気持ちよくお迎えを待てるように、

子供の心を読み取りながら様々なかかわりを持ちながら過ごす。

保護者にとっては、就労支援となるが、保育士は本来子供の発達に寄り添いながら、

一緒に過ごす、世話をする。

ママがいい、ママがいいと泣く子を、何とか担任との関係をしっかりとつけながら、

泣かずに待てるようにするのが務め。

毎日いろんな遊びの環境の中で楽しく過ごせるように。

そしていつしか園の生活にも慣れ泣かなくなってくると、もうそれでよいのだろうか

保育士の「良い仕事」が、いったい誰のためにあるのか・・。

はたして誰の役に立っているのか・・。

しかし、声なき声を聞くセンスオブワンダーを持たないまま、何年も過ぎてしまったとき、

大きなしっぺ返しになりませんように。

その時、自分のためでなく、子供のために自分のキャリアをどうしていくのか・・。

今できないことを何年か後ならできるのだろうか。

しかし、そこまでたたないと子どものためにということができにくい時代になって

しまったのだろうか。

その間の子どもがどのような気持ちをもって育つのか、

女性が輝く時、果たして子供も輝いているのだろうか・・。

子育て期の生き方、自分の子どもをどう育てるか、自分がどう生きるか、家庭をどう保つか、

流されず、その時その時、一生懸命考えてほしい。

良かれ悪しかれの結果を見てから行動するのではなく、その先を見据えて今を考えてほしい。

私たちが応援することが、子供にとってつらいことであるのは、保育士の仕事の本末転倒。

子どもの生きる道がどんどん辛いものになっている気がする。