藤原伊尹次男

藤原兼通

925年~977年

52年の人生である。


情に熱く激しい人だった。藤原家のためだけでなく、好んだ人のため、自分のために素直に生きた。


■昇進よりも大事なものがある

藤原家にとって脅威的な存在は、皇族から貴族に降りた源高明だった(後に謀反の罪で大宰府に左遷された)。

だが兼通は高明と親しく接し、兼通の息子を、高明の娘と結婚させている。

なので一族のなかで兼通は、唯一の高明派とみなされ、兄の伊尹からは冷遇され、弟兼家に位も昇進も先を越されてしまう。そして兼通と兼家との仲は険悪になった。


■兼通の摂関への切り札

兄の伊尹が病に伏した。

いよいよ死が間近になった頃、

兼通と兼家は円融天皇の前で、

摂政後任を巡り口論をはじめる始末。


天皇は13歳で元服し成人になった。

兼通は天皇に「奏上したき事があります」と書を奉った。

その筆跡は天皇が幼い頃に亡くなった母・安子のもので、「将来摂関を決めなくてはならない時には、必ず兄弟の順序に従って補任すこと」と記されていた。

天皇は母の遺命どおり、兼通を関白とした。


兼通は弟に摂関を奪われないように、

存命中だった妹・安子に頼んで一筆書いてもらい、この書を懐に入れて肌身離さず持っていた。

安子が兄の言う事を聞いたのは、

安子も兼通を慕っていたからだ。


■つなぎの天皇であろうと大切にする

円融天皇は5歳で母をの安子を亡くし、8歳で父の村上天皇を亡くす。村上天皇の幼い皇子女たちは兼通の庇護を受け育っていた。


円融天皇は継なぎの天皇とみなされていて、伊尹も兼家も娘を円融天皇の妻にしなかったが、兼通だけは娘の煌子を14歳の円融天皇の妻にし、中宮とした。煌子は天皇の12歳年長だった。


■弟、兼家の昇進停止

そのかいあって、兼通は急激に昇進し、太政大臣関白となり、藤原氏長者に。

それからの兼通は弟兼家の昇進停止し、異母弟を兼家の上に就けた。

兼家は長女超子を冷泉上皇の妻にしていたが、次女詮子をも円融天皇の妻にしようとしていたので、激しく非難し妨害した。(兼通死去後、詮子を円融天皇の妻にした)


■臨終間近の殺気せまる気迫

977年10月兼通は重い病に伏し、臨終間近になったその時、弟兼家の家から車が来たと伝えられた兼通は「兼家が最後の挨拶に来てくれたのだな」と思い、待っていたが、車は通り過ぎ天皇のいる内裏へ入ったと報告があった。

兼家は兄がもうすぐ臨終だと聞き、次の関白就任を天皇に頼みに行ったのだ。


これを知った兼通は激怒し、4人に支えられながら、息も絶え絶えに内裏に入った。

ちょうど兼家は天皇に、関白就任を頼む言葉を奏上していたが、兼通が現れ驚愕し逃げてしまった。


兼通は宣言する


「最後の任命の儀式を執り行う」


そして関白を任命した。


「藤原頼忠を関白とする」


つづいて降格者を発表した。


「藤原兼家は近衛大将の任を解き、

治部省の官人に任命する」


それから居並ぶ公卿たちを見回し聞いた。


「近衛大将の席が空いた。誰か欲しい者はおらぬか?」


公卿たちは言葉も出なかったが、

中納言の藤原済時が進み出てその席を欲し、近衛大将に就任した。


天皇は兼通の殺気迫る気迫に、

逆らうことができなかった。


それから程ない11月8日

兼通は死去した。

完全燃焼した。