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1泊2日無人島気分

もし、1泊2日で無人島に行ったら、日常のことや音楽のことなんかを、こんな感じで、ひとり思い巡らすんじゃないか…というブログです。

「遠いようで近い」

これは、先週、黒木渚のライヴ、ツアー初日の福岡公演を観ているときの俺の第一印象だ。

当日は熊本地震から10日ほど経った日で、ライヴ開催前に彼女はブログで、「私のほうがエネルギーを届けに行きたい」と書いていた。

それもあって、ライヴ中に彼女が発するポジティヴな心意気はかなりのもので、それを受け止めた観客から、またポジティヴな空気が発せられる。

当然それは、単に表面上だけ前向きな言葉が行き来するんじゃなく、彼女のヴォーカルや立ち居振舞い、バンドメンバーの演奏、そしてネガティヴな面もある彼女の曲自体から、ポジティヴなものを観客が抽出して採り入れ、エネルギーに変換してまたステージに返すという、高度で人間味のあるやり取りだったと思う。

黒木渚のように、ロックで文学性を持ちながら自分の世界を作り上げてる人には、どこか「遠い人」という印象を持ってしまうが、今回はポジティヴな交歓があるライヴだったので、冒頭のように「遠いところにいるようで、意外に身近」という印象になった。

ライヴ中のMCで、彼女は「みんなが無事でよかった」「みんなが元気でよかった」「今日観に来れなかった人には、また必ず私からライヴで会いに行く」と、熊本・大分の震災被害を念頭に置いた言葉を繰り返していた。

そう発言してしまうのは、日常と切り離された空間を演出しようとしながらも、日常とのつながりを意識してしまうことの表れで、それはブレているのではなく、人間味が音の隙間からこぼれ落ちている様子なのだ。

終演後、彼女はSNSに「みんなにエネルギーをあげるつもりだったのに、結局みんなからエネルギーをもらってしまった」という内容のことを書いている。でもあの場は、どちらかがどちらかに一方的にエネルギーをあげたのではなく、交歓会になっていたと思う。

それと彼女の場合、何かと歌詞の内容に注目されやすいが、リズムなどのアレンジ面では、ロックだけでなく、オールド・ソウル風だったり、パンク/ニューウェイヴだったり、ワルツ調だったり、ファンキーだったり、などのバリエーションがあり、それをうまく並べることで飽きさせないように構成してあったし、メロディーも楽しんで書いた感じが、ライヴだと伝わってくるんだよね。

もし彼女にそのつもりがなかったとしても、結果的に「黒木渚で注目する点は、歌詞だけじゃないんだぞ」って主張してたようにも受け取れた。それは聴き手が心に留めておかなくてはいけない大切なことだと思う。言葉だけが大事なら詩人や小説家になってしまえばいいけど、黒木渚はあくまでミュージシャンです、ってことね。


最後にひとつ思い出したことを。

彼女はMCで、こうも言っていた。「人生は喜劇だ!」と。

もしかすると、これはチャップリンの名言「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショット(遠写し)で見ると喜劇だ」へのオマージュなのかもしれない。

でも、そんなことより大事なのは、この発言が黒木渚のポジティヴな意思を表していることだ。彼女が「悲劇的な出来事を、嘆きで完結させたりしない」とでも言いたげではないか。そして、その意思を彼女が全面に出して奏でた音楽が、あの日の福岡では、特別な響きに感じられたことも、とても意味があるんじゃないかな。


ライヴが終わった帰り道、冒頭に書いた印象が変わった。

これは俺だけかもしれないが、彼女の音楽は、ライヴでは、俺も含めた観客それぞれのすぐそばに寄り添って鳴っているのに、終わって思い返そうとすると、まるで少し色褪せた記憶の中で鳴っているように感じてしまうことがある。それは、少し遠くに存在するような感じでもある。つまり、「遠いようで近い。言い換えれば、取っつきにくいと思ったけど、ちゃんと寄り添ってくれる。でも、そう思わせておいて、実はほんのちょっとだけ距離を置いているような音楽」なんじゃないだろうか。

その「ほんのちょっとの距離」は、彼女の孤独のせいかもしれないし、理性のせいかもしれない。とにかく、熱心なファンは、頑張れば埋められそうな、そのちょっとした距離を埋めようとするから、熱心に追いかけてしまうんだろう。

ま、簡単に言うと、熱心なファンにとって、黒木渚は「罪な人」ってことだな(笑)。

前回は、俺が現在、あるタレント事務所でフリートークについてやってるレッスンを他のところでもやってみたい、という話でしたが、その続きです。

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もうひとつ、講師のようなカタチで教えてみたいことがある。

それは、音楽の聴き方。具体的に言えば、音楽の見つけ方や、聴く音楽の幅の広げ方といったようなこと。

ある世代から上の人たちにしてみれば、そんなことは教わるようなことじゃないだろうが、CDやレコードを買って聴くという以外に、動画サイトやインターネット配信、定額制ストリーミングなどが出てきて、情報量が格段に増え、音楽を聴く方法が様変わりしてしまった現在、20代以下のミュージシャン志望の人たちには、特に必要になってきたことだと思う。

まず、配信やストリーミングについては、情報量が多すぎて、多くの人が迷子になってるんじゃないかと思う。

普段、配信やストリーミングで音楽を楽しんでいるような人たちからだって、「こういう感じの、いい音楽ありませんか?」と俺はよく尋ねられる。向こうは、何千万曲から選べるようなシステムを使ってるのにもかかわらず、だ。

要は、探し方が分からないわけだ。しかも、デジタル的なシステムは、当てずっぽうや偶然があまり通用しない。ある程度、筋道を立てないと、望むものが得られないようにできてるのだ。



そして、動画サイトは、曲がミュージックビデオとして、聴ける場合が多い。これが最も厄介なのだ。

こんなことをいってもピンと来ない人もいるかもしれないけど、日常的にミュージックビデオを楽しんでいるだけで、想像力が鈍っていると、俺は思う。

映像というものは、観ているこちらが受け身になってしまえば、絶対的な答えになってしまう。歌詞、メロディー、アレンジといった音楽要素があって、それで成立しているところに、ミュージックビデオの映像を加えると、楽曲から受けるイメージの正解がそのミュージックビデオの映像になってしまい、自分の想像力をほとんど使わない状態になる。それほど視覚情報は強く、独占的で、使い方を間違えば面倒なものにもなるものなんだ。ミュージックビデオを観るなとまでは言わないが、厄介なものであることは意識しておくべきだ。

音楽は本来、視覚情報による補足がなくても、聴覚情報だけで成り立つようなものじゃなきゃいけない。それを成り立たせるのは、聴き手の想像力だ。


…というような、音楽の聴き方とそれにまつわることを、キチンと教えなきゃいけない時代だと思うし、加えて、ポップミュージックの歴史を知ることも、とても重要なことだ。

ポップミュージックは感覚のもので、勉強なんて…と考えてる人もけっこういる。もちろん感覚も大事だが、一定の質のものを作り続けなくてはいけない。この「作り続ける」ためには感覚だけじゃダメで、勉強がやはり必要だ。感覚だけで、質の高いものを作り続けられるのは、一部の天才だけなんだし。

そうなって、聴き手としての自分が確立できるんだよね。

仕事で、若手のミュージシャンと接したり、その人たちの音楽や発言に触れている俺の個人的な実感だが、聴き手としての自分が確立できてなかったり、想像力が弱まっている人たちが多い。

その2つは、ミュージシャンとしての最重要事項に含まれると思ってるんだが、当の本人も周りも、歌や演奏などの技術向上か、またはプロモーション戦略に気を取られ過ぎて、音楽を聴くことの大事さを軽く見てる場合が多いんだよなぁ。

そこに気付かせることから始めなくてはいけないと思うんだよね。

そういうことって、音楽系の専門学校とかで、ちゃんと教えてるんだろうか?

力を入れてないところが多いんだとしたら、そういうことを俺が教えてみたいなぁ、と思うんだ。

確か今まで、ここには書いたことはなかったと思うが、俺は通常の仕事以外に、たまに福岡の某タレント事務所に講師として行っている。

最初は「俺でいいんですか?」とホントに思ったけど(笑)。

で、そちらの所属タレントさんに、何を教えているかというと、フリートークだ。

「フリートークを教えている」と言うと、プロのしゃべり手さんですら、「フリートークにコツなんてあるなら、教えてほしいくらいだ」と言う。

確かに、タレントやしゃべり手を養成する学校や講座はいろいろあるが、フリートークだけのレッスンというものは、あまり聞かない。

それは、放送界では、フリートークなどというものは、個人の資質と日常での努力と現場で体得するテクニックによってできるもので、他人から盗むことはあっても、教わるようなことではない、と思われているから。そして、それはその通りだと、俺も思う。

ただ、こういう物の見方をしたり、発想をしたり、などキッカケをあげるだけで、持っていた実力が覚醒する人がいるかもしれない(覚醒の度合いは個人差があるだろうけど)。

有効な努力の仕方は人それぞれだから、俺はヒントしかあげられない。それをもとに、自分にとって正しい方向の努力の仕方を見つけるしかない。いくら努力しても、努力の方向がズレていれば無駄になることも多いのだ。例えば、フリートークの実力を上げたいのに、写真の勉強ばかりしているとする。発想や視点の面では通じる部分もあるので、全く無駄というわけじゃないが、それを主軸に努力するのは、やはり無駄が多い。

要は、自主トレが重要なのだ。レッスンの時間だけ一所懸命やったって、日常生活で普通にしていれば、大して伸びない。よほど才能があれば別だが。


…なんて思いながらやっているが、実は先方の事務所さんの都合で、先月までの数ヶ月間、レッスンが休みだった。だから何だかウズウズしていた。

ようやく今月、久しぶりにレッスンをやってみて、気付いた。

俺、いつの間にか、他人に教える楽しさを知ってしまったんじゃないか?

そうかもしれない。自分のことなのに他人みたいな言い方だけど、自分でも最近気付いたんだ。

だから、できれば、別なタレント事務所など、他のところでも教えてみたいな、と、近頃思ってる。

でも、そういうのって、実績重視だから、難しいかもなぁ。

それとね、もうひとつ講師のようなカタチで教えてみたいことがあるんだ。

それは…

長くなったので、続きは別記事にします(笑)。

【続く】