結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P765

同業組織の再編と廃止(2)

全日本絹織物工業組合聯合会所属茨城県織物工業組合が、日本絹人絹織物配給統制

製造株式会社(以下、織物製造(株)と略記)の買入業務の代行人として名目上

生産者から反物を買上げた。実際の業務には結城紬の各工業小組合が当たった。

買上げた反物は、織物製造(株)の販売業務の代行人に売却された。販売業務の

代行人には結城織物同業組合第二部の紬問屋が、産地元売代行会として組織された。

この代行会は、1942年(昭和17)4月1日より業務を開始した。紬の販売代金は、

いったん県織物工業組合が微収のうえ、各工業小組合に送金され、販売代行人(紬

問屋)から直接工業小組合に渡すことは禁止された。販売代行人には織物製造(株)

から販売価格の5%以内が手数料として支払われた。このように統制経済の進展と

ともに、紬問屋は従来の機能を喪失し、統制会社の単なる下請機関に転化していっ

たのである。統制経済の進展は、右のように結城織物同業組合の存在を有名無実な

ものにしていった。しかも戦争の激化とともに関係者が微兵され、他方で原材料は

急速に不足をつげ、生産の減退はまぬがれなかった。このため1942年度限りで

検査制度も廃止された。1943年12月23日に商工大臣の名により、結城紬の技術

保持者として栃木県では桑絹町の永井重策、水野浪治、茨城県では絹川村小森の

野村半平が指定されたあと、翌1944年1月7日、本場結城織物同業組合が解散し、

結城紬は事実上生産を停止することとなった。技術保持者に指定された3人には

真綿24貫が配給され、生産する紬は年産240反以下、一反320円以内の亀甲細工

絣と規定され、生産品は東京三越内の日本美術統制会に納品され、司会の指定に

よって東京、名古屋、京都、大阪の主要デパートに配給された(a)。

このように結城紬は1943年で事実上生産が停止したのであり、その復興は敗戦後

の課題となった。

 

(a)重要無形文化財結城紬技術保存会<結城紬>より

 

<同業組織の再編と廃止(2)おわり>