結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P731

品質検査と市場の開拓

同業組合の重要な役割は、品質検査と販路の開拓であった。品質検査は組合内の不良品

を取り締まり、結城紬の信用を高めるためと、模造品の排除をねらいとしていた。

大正も末期になると結城紬の模造品が現われ、その後の不況下でそれは増大した。

これに対処するために、1929年(昭和4)に同業組合では新たに商標を制定し、同業

組合の団体標章として反物にこれを貼付し、その旨を市場で宣伝した。不正の取締り

については1924年(大正13)にその方法が取り決められた。1928年10月には同組合

の評議会で<絹入、短尺、リボンの無キモノハ勿論、高機等ニテ織リタルモノト認メタル

製品ハ絶対買入レザルコト>を決定した(鈴木家史料)。それにもかかわらず不正品が

出回り、とりわけ1933年頃から急速に増大した。こうした不良品の出回りや統制経済

への進展を背景として1933年7月15日付県令第22号によって検査監督取締規程が制定

され、8月1日より県営の検査が開始された。染色工場の臨時検査や製造業者の現状検査

などがこの年に行われ、その結果品質も向上し、返品も少なくなった(a)。

しかし、その後も染色の不良や不正品があとをたたなかった。1936年(昭和11)には

再び粗悪品が増大した。紬糸原料が高価なため、生産者が使用糸を極度に節約したこと

が主な原因であった。特徴的なことは紬平縞が短幅、短尺など粗悪品の八割を占め、

粗悪品の半数が賃織りによるものであったことである(b)。 また1938年(昭和13)

下半期は<近年ニナキ高値>を持続し、その結果<製造家ハ只管製造ニノミ没頭シ、

糸質ノ選択吟味ノ余裕ナキニノミナラズ製品検討ヲ怠リ、、、、多数ノ不良製品ノ現出

ヲ見タルモノナリ>(c)と指摘されている。その後は統制経済に入り、原材料の不足など

から不良品を根絶することが困難となっていった。同業組合では不良品を取り締り、

消費地の信用を高めることによって市場の拡大を目指すとともに、宣伝即売会や視察など

によって市場の開拓に努めた。昭和恐慌が始まった1930年に組合員3人が個人的に東京

で催し(d)好評を博したのをきっかけに、翌年から同業組合がこれを主催することとなった。

同年度には東京、京都、大阪、名古屋で開催し、翌1933年(昭和8)度には県に総経費の

3分の1に当たる2000円の補助を申請し、大阪3カ所、京都2カ所、名古屋1カ所で宣伝

即売会を開催した(e)。このように、宣伝即売会は1932年以降にはほとんど毎年開催され、

市場開拓にひと役をかったのである。また、組合では京橋区銀座四丁目の<ゆうきや>

(西村商店)と丸ビル内地方物産斡旋所に紬ネクタイの販売所をもうけ、ネクタイ販売

に力をいれた。他方組合では、消費地の問屋やデパートにおもむき、結城紬の品種や柄の

傾向を調査している。たとえば、1938年(昭和13)7月25日には同業組合から田中力造

ほか四名、栃木県工場試験場技師須藤、茨城県工場試験場技師飯尾、野村の総勢8人が、

秋場商店、三越、白木屋、高島屋を訪問し、柄、色の傾向の詳しい調査をしている。

このように、同業組合は品種検査によって不良品が市場に出回るのを防ぎ、消費者の信用

を得る努力を重ねながら、さらに積極的に消費者の求める紬を供給するため、さまざま

な努力を重ね、結城紬の発展をはかった。

 

(a)昭和8年<業務成績報告書>より

(b)昭和11年度<業務成績報告書>より

(c)昭和13年度<業務成績報告書>より

(d)求評宣伝即売会という催し会

(e)各年度<業務成績報告書>

 

<品質検査と市場の開拓 終わり>