結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P719

紬生産の地域と担い手

結城紬の生産地帯は、結城町の小塙、鬼怒川村、真壁郡関本町、同郷川西村や隣接した栃木県下都賀

郡の絹村、長沼村など、鬼怒川流域を中心に広がっていた。とりわけ、茨城県では絹川村と関本町、

栃木県では絹村が生産の中心であった。昭和10年代には栃木県が総生産量の七割を占め、そのうち

の四割が絹村で生産されていた。絹川村が平織りを中心に製織したのに対して、絹村では絣織りが

主であった。(鈴木家史料)紬生産は、旧来と同様に昭和恐慌以降もほとんどが農家の副業として

農家の子女によって営まれていた。これをはっきり示す表がある。この表をみるとわかるように、

1940年(昭和15)における結城紬生産者の織機所有台数をみると、製造者として同業組合に参加

している2688人のうち、8割の2157人が一台、419人が2台、75人が3台しか所有しておらず、

4台以上の所有者は35人しかいない。つまり、専業の製造者は、この時点でもごく少数にすぎなかっ

たわけである。結城紬の生産はあくまでも農家の副業が主要な形態であった。そして、その担い手

は農家の子女であった。紬生産地帯の農家の子女は、小学校を卒業するとすぐ紬の織り方を習い始めた。

一人前に織れるようになるまでには3~4年かかり、一人前になると、農閑期を利用して、年間5~7、

8反の紬を織った。大正末期までは、紬糸も自家で紡いだが、昭和初年になると副業の者も糸屋から

糸を買うことが多くなった。当時、糸代は糸屋に借りておいて紬を売ったときに支払った。

農家では<落し建>と称して紬が仕上るとすぐに売り、糸を買って再び生産した。副業に紬を織る者

には、値のいい時期まで反物を据え置く余裕がなかったからである。さらに資力のない者は、織機だけ

を所有し、有力な機屋から材料一切(時によっては織機まで)を支給してもらう賃織りをした。

専業の機屋は第一次大戦後から姿を見せ始め、1939年(昭和14)には46戸であった。織機の種類も

力織機は10台だけで、足踏みが3台、高機266台で、1462台はいざり機という状態であった。(a)。

有力な機屋は自分のところで織子を雇って織るだけでなく、賃織りにも出した。たとえば、西山新二郎

家では、大正末から昭和初年までは自宅に織機5台ぐらいで生産しているが、昭和10年代の最高時には

8人の織子を雇い、16人に賃織りをさせていた。このような事例が最も大きな経営の一つと考えられ、

2~3人を雇うのが一般的であった。機屋は不況下の縞一反10円の時代(1930~32年頃)に、糸屋に

糸代として7円、織賃に1円30銭~1円50銭、これに染色代を支払わなければならなかったから、利益

は1円そこそこであった(西山新二郎談)。このように製造者は、紬問屋とは比較にならないほどもうけ

が少なかったから、資力を蓄えて大規模化したり、力織機を大量に導入して量産体制に向かうことはできな

かった。これは紬問屋の支配が強く、流通ー消費のルートを問屋がしっかりと掌握していたためである。

すなわち、問屋を介さなければ反物を売りさばくことが困難だったし、また少量の反物を消費地に直売する

のはかえって経費がかさんだために問屋を介さざるを得ず、そのために利益の大きな部分を問屋に占められた。

 

(a)茨城県織機調査状況一覧より

 

<紬生産の地域と担い手 おわり>