結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P661

農業生産の足どり

農業生産物の構成と推移

結城の農業は、大正中頃には米と繭を主要な農産物とする姿になっていた。この姿は昭和恐慌下

の繭価の暴落にもかかわらず、1941年(昭和16)以降の戦時下の食糧増産政策による作付転換

の強制が実施されるまで根本的には変化しなかった。この概況を示した表がある。結城町は1934年

度、江川村は翌年度の数値である。結城町では米麦の生産額が全農産物価額の76%、繭が約8%

に達し、江川村では米麦が67%、繭が19.5%に達している。このような姿は、絹川村や上山川村

でも大同小異であった(上山川については<史料>101ページ)。しかし、この事実は昭和期に農業

のあり方が全く変化しなかったわけではない。その変化の特徴は次のような指摘である。

第一に大豆の作付面積が急速に減少したことである。明治末に181町あった結城町の大豆作付面積は、

1926年(大正15)には125町に減少し、1930年(昭和5)には73.4町、1935年には34.6町に

激減している。山川村でも1926年に1926年に192.5町あった作付面積が1930年には43.5町と

五分の一近くになっている。満州大豆の流入による大豆価格の低下が、主な原因であった。

第ニに桑苗生産の発展があげられる。とくに結城町と江川村では1933年(昭和8)以降の景気の回復

とともに、桑苗の生産額は急激していった。第三にかんぴょう生産の発展である。栃木県を中心に

発展したかんぴょうの生産は、大正期に江川村で発展し、昭和期に入ると結城町や上山川村にも普及

し発展した。

 <以下、長文のため略とまとめ>

繭価が惨落した昭和恐慌で養蚕業以外にも力をいれるようになった。養豚業や養鶏業なども奨励され、

竹製品の奨励も同じく奨励された。結城農業は戦時下にいたるまで米麦と繭を二本柱とするあり方に

根本的な変化がなかったとはいえ、徐々にその生産物構成を変えていった。

<農業生産の足どり  農業生産物の構成と推移 終わり>