結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P521

結城農学校

蚕業学校から農学校へ

染織学校の経営問題は当然のことながら蚕業学校にも飛び火し、その存廃の対象になった。そうした

矢先、不審火によって蚕室が焼失するという事件が起き、それをきっかけとして町費が計上されず、

教職員には給料も支払われなくなったため、教員も一人去り二人去りして、蚕業学校も廃校寸前の

状態にまで追い込まれた。こうした時一身の犠牲をかえりみず、無報酬で生徒指導を続け、ついに蚕

業学校を守り続けたのは田上滋教論であった。彼は1878年(明治11)那須郡瓜連村に生まれた。

旧姓を萩野谷といった。高等小学校を卒業すると水戸の茨城尋常中学校に入学し、1898年3月同校を

卒業した。その後五ヶ月ほど尋常小学校の代用教員をし、同年9月札幌農学校予科に推薦入学した。

札幌農学校に四ヶ月ほど在学して中途退学し、翌年1899年(明治32)結城町立蚕業学校に英語の助教授

兼書記として就職した。ようやく廃校の危機をまぬがれた蚕業学校は、1900年(明治33)農業課程を

新設したため、生徒も増加し、学校再建の目途も立ってきた。そこで町当局は学校側と協議のうえ、

1902年4月、蚕業学校から甲種農学校への改編申請書を文部省に提出したが却下されてしまった。町当局

は改めて乙種農学校として申請しなおし、五月認可となり、ここに結城農学校が誕生することになった。

<蚕業学校から農学校へ 終わり>