結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P465

本場結城織物同業組合の設立(2)

本場結城織物同業組合の組合区域は、結城郡の結城町ほか10か村、真壁郡、猿島郡、および栃木県

の下都賀郡、河内郡、芳賀郡で、紬の生産地帯を網羅している。1912年(大正元)末の組合員数

は2997人、その内訳は第一部(製造業者)2897人、第二部(問屋)12人、第三部(原料業者)

45人、第四部(染色業者)43人であった。設立時の組合長は奥沢庄平、副組合長は鈴木新平と

水野辰三郎である。従来は織物商、染色業者、真綿売買業者は別の組合を作っており、製造業者は

組合に組織されていなかった。この同業組合ができて、問屋を中心として結城紬の原料、染色、

機織り、販売という生産から流通の全課程が問屋を中心として従来よりもいっそう強化された規則下

に置かれることになった。県は本場結城織物同業組合の事実を援助するため、創立時の1000円の

県費補助をはじめとし、毎年500~800円の補助金を交付した。県費補助金は、同業組合設置の主要

な目的である織物検査のため、検査員給料に充当されるものであった。そのほか1915年(大正4)度

には染織試験場の設置、1917年(大正6)度以降はバッタン織り工女の養成が、それぞれ補助金交付

にあたって指定されている。このように県は、バッタン機および力織機の導入による結城、その他

県内織物業の近代化を全くあきらめたわけではない。1922年設立の茨城県工業試験場(結城)も、

県のこのような意図の具体化であった。一方、結城町の織物問屋も織物業の近代化のための努力を放棄

したわけではなかった。1916年(大正5)11月に、奥沢庄平を社長とする株式会社結城織物試験所が

設立された。資本金は一万1000円で、試験所とは名乗っていても実質は織物会社であった。この試験所

の製品は<八千代紬>といい、<紬ノ模擬品タル玉糸応用>の着物用の絹織物であった。原料の玉糸は

機械で糸をとり、それを地機で織っていた。第一次大戦期のブームの時には、二千反も生産されたが、

戦後の不況過程で売れ行き不振となって、1922年12月24日に結城織物試験所は解散した。

<本場結城織物同業組合の設立 終わり>