結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

桑苗生産

結城地方での桑苗生産は、1858年(安政5)鹿窪村の宮田国三郎が上州(群馬県)佐位郡島村の

田島から各桑苗3200本を購入して桑苗を栽培したことに始まる。宮田は近所の小林清八から

数人に桑苗増殖の方法を伝えた。さらに1872年(明治5)には、宮田は同志とはかって鬼怒川

対岸の真壁郡下川島(下館)にある官有不毛地約25町歩の無償払下げをうけて桑園を造成した。

1875年(明治8)一月茨城県は県下各地に模範苗設置のため、宮田から桑苗五万本を買い入れた。

このような桑苗生産が結城地方の桑苗生産の基礎を作った。

1885年(明治18)頃から桑苗の品種改良が高まり、1888~89年(明治21~22)には結城地方

で100以上の品種が作られた。宮田が植えた<世界一>という品種は当時一芽六~七円、

一株400円の買手まで現れ、ついに竹やらいを結んで盗難を防いだという。こうした投機的な桑苗

を農民は競って購入することは弊害が多かった。こうした風潮は奇種を好む弊風とみた広江嘉平は、

新品種と従来の品種との比較実地試験をニか年にわたって実施し、その結果、蚕糸の成績は従来の

桑苗と新品種とは異ならないことを村民に示した。こうした桑苗改良熱は、農民の投機熱をあおり、

結果として桑苗生産を促進させることとなったが、従来の桑苗が一本一銭以下というのに新品種は

一本一円以上というように高価な桑苗を農民が購入するということも生じた。広江嘉平の実地試験

なども影響して行き過ぎた改良熱もやがておさまった。

このような改良熱の弊害などもあって、茨城県は1888年(明治21)二月、県令甲第13号をもって

共同桑園設置規則を制定して優良桑苗の普及につとめ、1903年(明治36)には桑園の徹底的改善

のために桑苗の 頒布計画がたてられ、農事試験場で優良品種の選定が行われた。またのちに述べる

1887年(明治20)と1889年(明治22)の常総野蚕業集談会も、桑苗栽培改良の面でも効果をあげた。

桑苗生産で大きな功績を残す上山川村の桜井佐十郎 が蚕種製造とともに桑苗生産を始めるのは、1893年

(明治26)であったことにもみられるように、1890年代は結城地方の桑苗生産の画期といえる。

桑畑の反別推移も表にある。旧結城郡は1883年(明治16)の75町歩から1887年(明治20)の82町歩

へと増加し、茨城県全体では700町歩から1800町歩と2.5倍もふえている。とくに1891年(明治24)以降

の桑畑反別の増加はいちじるしい。旧結城郡の桑畑反別は1892年には356町歩となった。

 

<特有農産物の推移 終 >