日本人には個がないと言われて久しいが「自分に特徴と呼べるもの何一つないんです」と言う人をみたことがない。
自分が出会ったことのある人の大半は、
「自分は人より~」
という感覚をもっている。
人より極端
人よりおおざっぱ
人よりトラウマを抱えている
人より自信がある・ない
人より真面目・不真面目
人より傷つきやすい・傷ついている
云々
どうやら人は「特別な自分」でありたいらしい。
実際多くの場合、本人が思っているほど周りはその人を特別だとは思ってないような気がするが。
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「一本一本打ち続けた先に大きな記録が見えてくればいい」
みたいなことを言っていて、ひどく感動したことを憶えている。
いきなり大記録を狙って始めるのではなく、目の前の打席を大切に積み重ねた末の結果が記録になっているだけのことだという彼なりの言葉だった。
良質の論文はまさにこの精神によってのみ生み出される。
今日も明日もまずは目の前の一ページだ。
Illegal immigrants
言わずとしてたアメリカ社会で流行っている社会問題だ。
細かいことはさておき、不法移民を厳しく取り締まろうとする意見、たとえば不法移民の子どもには学費免除の権利を与えないとか、に対する批判の一つとして"No person is illegal."という表現がある。
要するに「不法」というステータスは国家の「法」が人口的に作り上げたカテゴリーであって、あたかも生来「不法」者であるような形で根源的な人間性を否定しているかのような制度や、だれもが享受すべき権利などが取り上げられるのは不当だということだ。
が、このno person is illegalという意見はよくて理想主義的、往々にして的外れ、と言わざるを得ない。
現代において、まともな経済水準に達している国に住もうとする限り近代が生み出したnation-stateという枠組みからは逃れられない。
各国家は「主権」の名のもとに、だれが国に住めるか、だれが国から追い出されるか、だれがどの権利をもらえるか、ということ制定する権利を主張する。これには実質的にだれも逆らえない。
唯一逆らえるとしたら国際機関、国際条約といった超国家的な力だが、現実的に国際機関は主権に関しては無力だ。ましてアメリカの主権に挑戦できる国際機関は今のところない。
no person is illegalというのは立派だが、そんなモラルで国家の利益は決まらないし、政府はうごかない。
それに、そのillegal immigrantsがもとめている生活は国家という枠組みなしにはありえない。
もっと他のアプローチがあろうに、と、no person is illegalのカンバンを見るたびに思う。
それになりの時間を生きてくれば後悔することも多いはずだ。
たまに「自分の下してきた決断に後悔したことはない」とおっしゃる人がいるが、どこかインチキくさい。
自分の決断に自信がないからゆえに自らを鼓舞するために言っているのであればいいが、本当に後悔していないのゆえの発言であればよほど適当に生きてきたのかと思ってしまう。
「後悔しないように精いっぱい生きる」ことは素敵で美しい。
しかし「後悔しない人生」なんてものは存在しない。
Positive thinkingへの傾倒だか、自己否定への危惧だか理由は知らないけど、現代社会は後悔することも許されないのかと思ったりもする。
And all the men and women merely players:
-William Shakespeare, As You Like It.