
蔦屋重三郎の母津与は、わずか7年という短い時間で、蔦重を教育して彼の全てを形作った。
そして妻のていは、日本橋で蔦重と共に夢を追いかけた。
津与とていについて、詳しく見ていこう。
(タイトル表示:【べらぼう】蔦重の母・津与と妻・てい ~天才を育てた二人の偉大な女性~)
(BGM:少しミステリアスで、吉原の華やかさと影を感じさせる音楽に変わる)
蔦重の母、津与は、生年は定かではないが、本名は広瀬津与といい、江戸の町人階級の出身であった。
彼女の出自には、驚くべき可能性が秘められており、津与は、吉原随一の引手茶屋「駿河屋市右衛門」の姉、あるいは妹であったと推定されている。
当時の吉原で「駿河屋」といえば、誰もが知る大店(おおだな)で、もし、その家の娘だったとすれば、津与はいわば「お嬢様」として育ったことになる。
幼い頃から読み書き、そろばんはもちろん、茶道や書道など高い教養を身につけ、武家の妻になっても、恥ずかしくないほどの作法を叩き込まれていたという。
そんな津与が結婚した相手は、丸山重助(まるやま じゅうすけ)という尾張出身の男。
彼の素性は多くが謎に包まれているが、吉原で働く一介の奉公人だった可能性が高いと言われている。
吉原一の茶屋のお嬢様と、一人の奉公人、それは、許されざる恋だったが、二人は、1750年寛延3年、吉原で一人の男の子を授かる。
のちの蔦屋重三郎である。
しかし、幸せな時間は長くは続かず、蔦重がわずか6歳、数えで7歳になった年、津与と重助は、幼い息子を残し、忽然と姿を消してしまう。
(BGM:切なく、親子の別れを思わせる悲しいメロディ)
なぜ、二人は蔦重を置いて行かねばならなかったのかについては、確かな記録は存在しない。
しかし、残された事実から、その背景を推し量ることは出来る。
息子一人を育てることができないほどの経済的な困窮、あるいは、何らかのトラブルに巻き込まれ、追われるようにして江戸を離れたとも考えられる。
津与には「駿河屋」という帰るべき実家があったはずだが、彼女は実家を頼ることなく、夫と共に吉原を去っている。
もしかしたら、身分違いの重助との結婚そのものが、実家の意に添わないものだったのかもしれない。
いずれにせよ、幼い蔦重は、同じ吉原の茶屋「喜多川家」へ養子に出され、こうして、わずか6歳で両親と生き別れることになった蔦重。
しかし、彼の中で母・津与の存在が消えることはなかった。
のちに蔦重の盟友となる大田南畝は、津与の死後に作られた碑文にこう記している。
「蔦重のあの強固な意志は、思うに母親の教育の賜物だろう」
たった7年。されど7年。
津与が我が子と過ごした濃密な時間が、蔦重の心に「志を高く持つこと」「人を見る目」、そして「商才の種」を植え付けていたのである。
(BGM:蔦重の活躍を予感させる、リズミカルで明るい曲調へ)
母から受け継いだ才覚の種は、やがて芽吹き、養子に入った蔦重は、たくましく成長し、貸本屋から身を起こすと、やがて出版業へと進出する。
吉原のガイドブックである「吉原細見(さいけん)」や、人気遊女を描いた浮世絵を次々とヒットさせ、時代の寵児となっていく。
彼の周りには、自然と人が集まり、人気作家の朋誠堂喜三二や恋川春町、絵師の北尾重政や勝川春章など。
彼らの支えもあり、蔦重はついに吉原を飛び出し、江戸の中心地日本橋へと打って出る。
1783年天明3年。蔦重、33歳の時、彼は日本橋通油町に、新しい店「耕書堂」を構える。
そして、この日本橋進出を機に、蔦重は人生の大きな二つの決断をしている。
一つ目は、30年近く前に姿を消した、両親を呼び寄せることであった。
(BGM:感動の再会と、家族の温かさを感じさせる、穏やかで優しい音楽)
日本橋の新しい店で、蔦重と母津与、そして父・重助は、ついに再会の時を迎える。
ドラマでは母親の津与が無理やり蔦重の元を訪ねる設定になっているが、実際は少し異なっていたようである。
そして蔦重はもう一つの大きな決断で、ていという女性を妻に迎えている。
津与にとってていは、初めて顔を合わせる、息子の妻で、普通なら、気まずい空気が流れてもおかしくない。
しかし、津与はすぐに新しい環境に溶け込んでいる。
持ち前の教養と明るさで、蔦重のもとに集まる文化人たちとも気さくに交流し、店を手伝い、一家を支えた。
さらに驚くべきは、妻のていとの関係だ。
二人は嫁姑として、実に仲が良かったと伝えられている。
その証拠に、当時流行していた「狂歌」の世界に、二人そろって足を踏み入れている。
津与は「蔦唐丸母」、ていは「蔦重妻」という名前で、数々の狂歌集に自作の歌を寄せている。
夫を、そして息子を支える二人の女性が、同じ趣味を楽しみ、笑いあう。
日本橋の耕書堂は、のちに喜多川歌麿や十返舎一九といった才能を育むサロンとなるが、その中心には、いつも津与とていの、温かい笑顔があったに違いない。
(BGM:静かで、人生の終幕を思わせる、荘厳な音楽)
しかし、このような幸せな時間は永遠ではなかった。
時は自由な田沼意次の時代から、窮屈な松平定信の時代へと移り変わり、蔦重の出版活動にも厳しい弾圧の目が向けられる。
蔦重が、財産の半分を没収されるという重い処分を受けたが、その翌年、1792年寛政4年10月、母・津与は、静かにその生涯を閉じている。
父・重助も、前後して亡くなったとされている。
愛する母の死を、蔦重は深く嘆き、大田南畝に依頼し、母の遺徳をたたえる碑文を制作している。
そこに込められていたのは、息子から母への、万感の想いだった。
「たとえ7年でも、母は自分の基礎をつくった」
「この親にして、この子あり」
時に離れても、母子の絆が消えることはなかったのである。
(エンディングBGM:オープニングのテーマ曲が、より感動的に流れる)
江戸の文化を牽引した天才プロデューサー、蔦屋重三郎。
しかし彼もあまり長生きは出来なかった。
蔦重は母の死からわずか5年後に47歳で、脚気のために逝去している。
蔦重の死後、耕書堂の店は養子の勇助が継いだが、ていが懸命に切り盛りしたといわれている。
ところで江戸時代には脚気でなくなる人が多かったが、これは当時の偏った食習慣が原因だった。
脚気は白米の食べすぎで、贅沢病ともいわれたが、3代将軍徳川家光や14代家茂も脚気で亡くなっている。
江戸時代は白米の消費量が多く、成人男性は1日に約5合の白米を食べていたが、現代人の白米の消費量は1日約1合弱なので、現代と比較すると約5倍の量であった。
ドラマで食事の時に、皆が茶碗の山盛りの御飯をうまそうに食べているのはそのためである。
その代わりおかずはほとんどなく、塩辛い漬物と味噌汁で大量のお米を食べるスタイルだった。
江戸時代の漬物は保存食であったので、塩分濃度は20%以上が一般的で、現在の漬物の塩分濃度が2~3%なので、そのしょっぱさは想像以上である。
脚気はビタミン欠乏症の一つで、ビタミンB1の不足によって心不全と末梢神経障害が起きる病気である。
心不全による足のむくみ、神経障害による足のしびれが起きることから「脚気」と呼ばれていた。
まだ若く働き盛りの蔦重が、このような病気で亡くなったのは大変に残念である。
それはともかく、蔦屋重三郎のその強さと優しさ、そして類まれなる才能は、一人の名もなき、しかし、強く賢い母・津与と、
共に歩んだ心優しき妻・ていによって育まれた。
今後の大河ドラマ「べらぼう」では、この二人の偉大な女性が、蔦重の人生にどのように光を当てていくのか、次回の展開から、ますます目が離せないようである。
【津与とてい】ユーチューブ動画