気が付けば、前回の更新から四か月も経っていました。いやはや、月日の流れは早いものです。


その一瞬は確かに存在していたのに、過ぎてしまえばあっという間というのが時間というもの。


ここは一先ず、長らく放置していた事をお詫び申し上げましょう。申し訳ありませんでした。



さて、早速今回の語りに移りたいと思います。この人物は、きっとご存じの方も多いはず。


表舞台に出てきた五年と言う短い時間の中で激動の歴史を残し、またラストサムライとも言われている、


土方歳三です。


新選組が生まれてから事実上の解散となるまでの時間は、僅かに五年。そう、たった五年なのです。

五年という時間は人によっては長く感じるでしょうが、少なくとも土方さんを含む新選組の方々にとっては、すごく短い時間に思えた事でしょう。


土方さんの生涯については、いろいろな本が出版され”燃えよ剣”という有名な小説もある事なので、ここではあえて省きます。


私が今回語りたいのは、彼・土方歳三が新選組副長として生きた五年間の中で、一体何が一番彼の心に残ったのか、という事です。


勿論そんな事、当の本人にしか分からない事でしょうが、想像するだけなら自由でしょう?


新選組と聞いて一番最初に思い浮かぶのは恐らく、池田屋事件。恐らく、新選組の名を知っている人のほとんどは、この事件の名もご存じだと思います。


攘夷志士と新選組の対決といっても過言でなかったこの事件は、一時新選組が不利となったものの、土方歳三が隊を率いて加勢に入った事で、結果的に新選組が勝利を収めた、と言われています。


この事件は恐らく、当時にも話題となり、一気に新選組の名を広げる事となったのでしょう。

ならば、土方さんが一番心にとどめた事はこの事だったのか?……結論を急ぐ前に、他の可能性も上げて行きましょうか。


次に上げられるものとすれば、芹沢鴨の暗殺、でしょうか。さて、ここで聞き慣れない名前に疑問符を浮かべた方も居るでしょう。無理もありません、芹沢鴨が新選組として生きていた時間は、本当に瞬きほどの時間だったのですから。


新選組の局長は?と質問すれば、大半の方が近藤勇の名を口にする事でしょう。ええ、それは確かにそうです。ですが、彼は実は二代目の局長で、初代…つまり新選組発足当時の事実上の局長は、この芹沢鴨だったのです。


なら何故、そんな短期間で局長の代替わりが行われたのか?……それは、聞こえは悪いですが、芹沢鴨の素行の悪さが原因といっても過言ではないかと思います。


芹沢は、土方・近藤・沖田が剣を学んだ”天然理心流”とは別の流派を持つ人間で、天狗党という尊王攘夷の流れを汲む家の出でもあったそうです。その出自と、彼自身が起こしたとある事件 が関係し、朝廷から彼の逮捕命令が下され、それが会津藩を通して近藤・土方らに暗殺命令となって下ったのです。


土方歳三らは闇討ちに成功し、芹沢を暗殺しました。共に新選組を立ち上げた者を斬った彼等の中に、いくばくかの迷いや後悔があったかどうかは、今となっては分かりません。当時の時代も時代ですし、もしかしたらそこには私達には想像のできない思いが渦巻いていたかもしれません。


ともかく、これもまた新選組の歴史の中で、大きな変動を促した事件の一つであることには違いないでしょう。念のため言っておきますが、ここに書かれている事はあくまで私の主観によって綴られたことなので、事実とは少し違っている部分があるやもしれませんが、そこはご了承ください。


では、土方さんの心に最も残った事はこれなのか?……どうなのでしょう?


僅かな時間とはいえ、仲間として過ごした人を斬ったのです。それは当然心に残るでしょう。

池田屋事件にしても同じ、その事で自分達の名は広く知られたものの、大勢の隊士が事件の中で亡くなりました。


きっとそのどちらも、土方さんの中には大きく残ったはずです。


……おや?ここまでの語りを読み返してみると、土方歳三の事と言うより、新選組の事を語ったようにも思えますね。でも、これはこれでありだと思います。土方歳三の歴史とは、新選組の歴史と同意義だと私は思っていますから。


私は歴史ファンとしても、新選組も土方歳三も大好きです。誠の字を背負い、激動の歴史を残した彼等から、現代を生きる私達が学べる事もきっとあるでしょう。


時が明治へと移り始めても、土方歳三は舞台を京都から函館に移し、戦い続けました。そして、函館戦争の中で、まだ若いと言える歳で命を落としました。もっと生きてほしかったと思う反面、武人として、侍としてはこれ以上の最期は無かったのだろうとも思わされます。


では、その最期に土方さんが回想した事は、一体何なのか?その後の歴史にも長く語られる事となった、池田屋事件?それとも、共に新選組を立ち上げた仲間だった芹沢鴨を斬った事?いやいや、歴史の表舞台には出て来なかっただけで、他にも沢山の事があったはずだから、その中のどれか?


……いいえ、もしかしたら、何も思い浮かばなかったかもしれません。そう、そういう可能性もあるのです。


でも、その可能性の中で、私が真っ先に思い浮かんだことは、ひどく月並みなものでした。


土方歳三が最期の瞬間に思い浮かべた事は、その後の歴史に語られるような大きな事件でも何でもなく、ただ近藤さんや沖田さんと、仲間と共に過ごした何の事も無い日常だったのではないのかと。


……自分で言っておきながら、すごくありきたりなものだと思います。どんな大事件より、仲間と笑い合える日常の方がずっと心に残るだろう、なんて。だけど、想像する事が自由であると同時に、信じる事も自由なのですから。


ならそう思っていても、バチは当たらない……ですよね?



ではでは、本日の語りはこれにてお終いです。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

平安時代といえば、貴族や十二単などのイメージが真っ先に浮かぶ事と思います。


おとぎ話でいえば、かぐや姫の時代がまさにそれでしょう。


さて今回語る歴史の登場人物ですが、それは平安時代の終わりと鎌倉時代の始めを生きた女性。



静御前です。



源義経の妻であり、その子を宿した彼女ですが、その子が男児であった為に義経の兄・頼朝に殺されてしまった…というのは、有名な話なのでご存じの方も多いかと思います。


歴史書を見る限り、かなり波乱万丈な人生を生きたようですが、実は源氏と関わる前や、子を殺されてからの彼女の人生というものは、少なくとも私が知っている本などの情報媒体を見ても出ては来ません。せいぜい、義経と出逢う前は白拍子 というものをやっていたという事が分かっているくらいです。


どうやらこの静御前という女性は、源義経と出逢いその子を宿すという事があって、歴史に名が残ったにすぎない人物のようです。その前後の記録が無いのは、きっとこの時を除いて彼女が歴史の表舞台に出てくることが無かったからでしょう。

もしも、彼女が生んだ子が男児ではなく女児で、それ故に殺されなかったとしたら、この先の歴史にも彼女やその子の名が現れたかもしれません。いえそれどころか、源氏の歴史に大きな影響が出ていたかもしれません。


歴史は幾重もの何かが重なって紡がれてきました。静御前という女性の場合、その重なった何かは”源義経との出逢い”と”産んだ子が男児”であったという、一つの幸運と一つの不幸。


静御前は産まれた子を頼朝に渡す事を頑なに拒んだといいます。それは母親ならば当たり前でしょうが、どうして彼女は、折角産んでもすぐに殺される可能性があるのに、それでも産もうと思ったのでしょうか?

当時にとて、中絶の知識や選択は多少なりともあったはずなのに、どうして彼女はそれでも産もうとしたのか。


産まれてくるのは女児かもしれない。それならば殺される事は無いから、その二分の一の可能性に賭けていたのか。…きっとそうなのでしょう。そして、一世一代ともいえるそんな賭けを彼女がした理由を、私は勝手に想像してみました。

つまり、静御前は源義経を心から愛したからこそ、その血を、命を受け継がせたいと思った。だから殺されない可能性に賭けて産んだのではないかと。…そこまで思える人と出逢えた事は、彼女にとって紛れも無く幸運な事だったと思います。


だけど、産まれたのは男児。殺される運命に立たされる子。産まれた子を抱き上げ、それを悟ってしまった時の静御前は、間違いなく絶望の底に心を落とした事でしょう。もしかしたら涙を流したのかもしれません。

そして、その子は殺されてしまった。歴史書に残っていない事から、恐らく名前もまだ無かったのでしょう。……名も付けられないまま子を奪われた事は、まごう事無く不幸な事です。


ですがここで一つ、私は疑問に思いました。この後の歴史には、静御前の名は一切出て来ません。


それはつまり、彼女は子を殺した頼朝への復讐をしなかったという事です。

もしそんな事をしようとしたなら、歴史に残らないはずはないでしょうから。


どうして、産まれたばかりの我が子を殺した頼朝に、静御前は復讐をしようとしなかったのか。

相手が相手だから、諦めるしかなかったのか?…いいえ、親の子を思う心はその程度ではないはずです。

ならば何故?……これはあくまで可能性であり私の想像ですが、もしかしたら頼朝も本当は子を殺したくはなく、静御前もまたそれを知っていたから、なのではないでしょうか。


だってそうです。本当に義経の血を絶やしたかったなら、残酷ですが子を産む前に静御前ごと殺してしまえば良かったはず。当時の時代なら、それは決して難しい事ではな無かったでしょう。なのに、頼朝はわざわざ”女児なら助けるが男児なら殺す”と言い、子が産まれるまで待ちました。


男児なら殺すというのは、産まれた子が男だった場合将来自分の地位を脅かす可能性があったからです。ですが、考えてみてもください。例え女児でも、その子が成長し産んだ子が男であれば、結局は同じ事だったのではないのでしょうか?


だから、私は思ったのです。頼朝も、産まれた子を本当は殺したくはなかったのではないかと。

静御前はその真意を知っていたからこそ、復讐をせずに歴史の闇へ消える事を選んだのではないかと。


勿論、これらは全て私の想像です。千年近い時が経った今、真実を確かめるすべなどありはしません。


今回は静御前を中心に、その子や源頼朝について、”良い方”に考えた結果至った想像です。


もしかしたら、頼朝は産まれた子が女児であっても、先に言った可能性を危惧して殺したかもしれませんし、静御前がその後の歴史に現れなく、また復讐さえしなかったという事も、ただ単に殺された子の後を追ったのかもしれませんしね?



ではでは、本日の語りはこれにてお終いです。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

はじめまして、時世(ときよ)と申します。


まず最初に、私は歴史が大好きです。その幅は弥生から江戸と幅広いです。


このブログでは、今に至るまでの様々な時代達を個人的な主観の元で語ったり、思考したりしたいと思っております。


基本的に、このブログに登場するのは日本史のみになる予定ですが、たまに世界史も語る事があるかもしれません。


では皆様方。どうか、お見知りおきを。