HISTORYガイドミスターKのブログ -2ページ目

HISTORYガイドミスターKのブログ

古代史から近代史までの歴史の探求ブログです。人類誕生のなぞから超古代史、宇宙飛行士説、日本国誕生、明治維新、日本人のルーツなど幅広く綴っていきます。

琉球七宮八社の一つ沖宮をご紹介します。

琉球七宮八社ではありますが、近代社格制度では、無社格になっていますが、私が沖縄の神社で好きな場所の一つです。

 

那覇空港から15分頃で行けます。交通の便もよく、沖縄モノレール壺川駅、奥武山公園駅が隣接している奥武山公園内に鎮座しています。

 

 

御祭神

天受久女龍宮王御神(てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ。)
天智門女龍宮王御神(あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ)
天受賀女龍宮王御神(てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ)
以上の御三神のまたの名を天照大御神と称える。


天龍大御神(てんりゅうおおおんかみ)
天久臣乙女王御神(あめくしんおとめおうおんかみ)
天芳子乙女王御神(てんぽうしおとめおうおんかみ)
天仁子乙女王御神(てんじんしおとめおうおんかみ)
天来子乙女王御神(てんらいしおとめおうおんかみ)


伊弉冉尊(いざなみのみこと)
速玉男尊(はやたまをのみこと) 熊野三神
事解男尊(ことさかをのみこと)

 

境内末社

住吉神社・八坂神社・弁財天宮・権現堂・祖霊舎

 

御朱印

 
こちらの御朱印は去年の5月1日の令和元年記念のバージョンです。
 

沖宮・由緒

琉球八社の一つ・沖宮の創建は詳かでないが源為朝公時代と琉球史料書にある。 国家安穏・五穀豊穣・陸海交通安全の神船玉神として歴代琉球王を始め諸民に尊崇された。明治四十一年那覇港築港の為・字安里に遷座。昭和十年国宝に指定されるも第二次大戦で焼失・戦後・沖宮創始の御祭神、即ち霊木の根は奥武山天燈山御嶽と神示を受け御神慮により昭和三十六年に通堂町に仮遷座。昭和五十年八月現在地に御遷座。

                                           沖宮公式HPより引用

 

沖宮が鎮座する奥武山は今は陸続きになっていますが、その昔漫湖の入り江に浮かぶ島でした。

 

琉球王朝時代の奥武山は、それは素晴らしい景勝地で、江戸時代の有名な絵師葛飾北斎が琉球八景の一つとして描いています。

 

 

沖宮の拝殿です。

 

 

沖縄瓦で本土の拝殿とはちょっと違った感じですね。

参拝をすませて次は、拝殿横の方から行った先に、住吉神社へ参拝します。

 

 

拝殿の裏手にある天燈山 (てんとうざん)へ

 

 

赤い鳥居をくぐり階段を上っていくと、頂上には拝所のようになっている場所があります。

ここは天燈山といい、また「黄金森」(くがにむい)と称される場所で、

その昔より神地、聖地として沖縄随一の霊峯山として信仰されてきました。

 

 

その他にも八坂神社や水神様などたくさんの神様が祀られています。

 

 

 

そして最後に弁財天様へお参りして

 

 

 

ちょっと休憩できる神社Cafe!

沖の茶屋でコーヒータイムなんかいいかも知れません。

 


また沖宮のある奥武山にはこんな民話ビックリマークビックリマーク

 

昔、沖縄の那覇に奥武山(おーぬやま)という島があり、そこには数多くのみみずが住んでいた。

ある夜みみずの仲間で宴会が開かれることになり、トントンミーとワタブーも少し送れて宴会にやって来た。

皆が楽しく食べたり呑んだり踊ったりしてる中、一人悲し気な顔をしている年寄りのみみずがいる。年寄りはみみずの数が増えているのが悲しいのだという。

年寄りみみずは、みみずはどんどん増えるのに島は大きくはならない。仲間が増えれば増えるほど島は狭くなり、食べ物も不足する、それで悲しいのだと言った。

その話を聞いたトントンミーや他のみみずも悲しくなり、皆で泣き出してしまった。

その頃浜の近くでは、一匹のハブが酔っぱらっていい気分でうとうと眠っていた。すると山の上の方から水が流れてきて、ハブは寝ている間に海へ流されてしまった。

突然海にハマってびっくりしたハブは、やっとことで岸に泳ぎついた。そうして水が流れてきた山の上の方へ登っていった。すると大勢のみみずが涙を流して泣いている。さっきの水はこのみみずの涙だった。

みみず達が泣いている理由を知ったハブは呆れ顔で、みみず達を岸辺に連れていった。そうして海の向こうに見える渡地(わたんじ)という島を指して、あの島はここよりずっと大きくて食べ物も豊富にある。あそこに移り住めばいいと教えた。

みみず達は半信半疑だったが、とにかく誰か渡地へ調べに行ってもらうことになり、若いトントンミーとワタブーに決まった。2人は葉っぱの舟に乗り、渡地へと向かった。

2人はゆらゆら揺れる舟にうんざりしながらも旅を続けた。ようやく渡地へ着いた2人が、土を食べてみると、奥武山よりずっと広くて美味しい土だった。

その後、皆で渡地へ渡ったみみず達は、広大な土地で何不自由なく幸せに暮らしたそうだ。

                                             (引用/まんが日本昔ばなし大辞典)

私はこの話は調べてみて初めて知りましたが、面白い逸話ですね爆笑

 

沖宮(おきのぐう)は市内中心地からも近く、アクセスしやすい場所にある神社ですし、とても気のいい場所となっています。

 

是非沖縄に来た際には立ち寄っていただきたいです。

 

 

沖宮に来たらここもオススメな神社「山下町の住吉神社」

 

奥武山公園から歩いて15分の山下町の山下西公園にある丘にある神社

元の住吉神社は、那覇軍港の中にあった。

 

山下西公園の奥の方に入口がある。

階段を上って、

鳥居が見えてくる。

 

行くとわかるが神社というより、沖縄の拝所のような感じになっている。

 

 

 

小さな拝殿があった

 

 

右手の方には石碑があった。

 

 

風化したのか傷んでいて字が読みずらいが、大体下記のようなことが記されている。

 

琉球に薩摩が侵攻(1609年)し、のちに薩摩藩によって江戸に連行された琉球国尚寧王は、徳川秀忠に謁見したのち帰国したが、その時の随行員に儀間真常がいた。住吉神社は、この儀間真常が1611年(慶長16年)の帰国途上に、薩摩から海上守護の神として勧請したものだと伝えられている。祭神は航海の神、表筒男命、中筒男命、底筒男命の、住吉三神である。当初は儀間村の儀間真常の自宅に安置されていたそうだが、後に村人達によって、今の那覇港の南岸にあった屋良座森に社殿を造営し遷されたと云う。そこから住吉森と呼ばれるようになり、今の住吉町の地名が起こっている。村人達から尊崇されていた住吉神社は、沖縄戦で焼失し、跡地は米軍の港湾工事によって住吉森と共に海底に沈んでしまった。
住吉三神を勧請した儀間真常だが、奥武山公園にある世持神社に、琉球の三偉人の一人として祀られている。中国・明への進貢船に事務方の責任者として乗り込んでいた野口総官が、1605年に当時「蕃薯(はんす)」と呼ばれていたサツマイモの栽培方法を学び、その苗を持ち帰ってきた。この苗を貰い受け琉球全土に普及させ、飢えに苦しんでいた琉球の人々を救ったのが儀間真常なのである。

 

ちょっとわかりずらい場所にありますが、奥武山へ来た際にはこちらの神社にも立ち寄っていただきたいです。

 

ではまた次回の記事でお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

どうも、ミスターKです。

 

前回の記事「記紀の呪縛」は読んでいただけたでしょうか?

 

歴史の探求は人間の知的欲求を満たしてくれます。

 

我が国日本は嘘で塗り固められた歴史認識の上に成り立っています。

 

日本とは何か?

 

日本人とは?

 

天皇とは?・・・・

 

 

 

過去の歴史を知ることで、我々日本人にとって大切になってくると思います。

 

 

では、今日の本題の考察と行きましょう。

 

 

古代史を探求していく上で最初に確認しておかないといけない事があると私は思う。

 

それは多くの古代史の考察や探求の参考文献として『古事記』『日本書紀』のいわゆる『記紀』が前提条件としてあるという事。

 

その『記紀』の内容がどこまでが信用できるかを検証しなければならない。

 

その前に古事記と日本書紀の成り立ちを確認してみよう。

 

古事記とは

 

和銅5(712)年、元明天皇(第43代)に献上された。

上、中、下巻の全3巻で構成され、天地のはじまりから第33代の推古天皇までが記されている。

 

編纂を命じたのは壬申の乱(672)年で天智天皇(てんぢてんのう)に勝って新王朝を築いた天武天皇(てんぶてんのう)(第40代)の命によってその編纂が成された。

 

朝廷や各氏族が伝える帝紀(天皇家の系譜)と旧辞(朝廷の伝承・説話や物語)に間違いが多いとして、それを再編集して誤りを正し、稗田阿礼(ひえだのあれ)に読ませ暗誦させた。

 

天武天皇の死により編纂作業は一旦中断するが、のちに元明天皇が阿礼が語る内容を大安万侶(おおのやすまろ)に筆録させ、完成し元明天皇に献上された。

 

簡略に成り立ちを記したが、古事記の全体の3分一を神代が占め、一割に満たない日本書紀に比べて、国譲り天孫降臨などの神話が多く占めていて、歴史書としての性格が強い日本書紀に比べ、古事記は和歌を織り交ぜ演出を図り、神々の感情や復讐の物語、人間の喜怒哀楽を描き、文学的色彩が強い

 

 

 

日本書紀とは

 

日本書紀は古事記の8年後養老4(720)年、元正天皇(げんしょうてんのう)(第44代)の時代に完成された。

 

全30巻からなり、第41代持統天皇までの事積を記録している。

 

古事記は第23代顕宗天皇(けんそうてんのう)で物語的要素の記述をやめ、以後推古天皇(すいこてんのう)まで簡単な系譜のみになるが、日本書紀は顕宗からのボリュームが多く全体の半分以上に達する。

 

編纂を命じたのは古事記と同様に天武天皇で、日本初となる正史をつくるため、天武10(681)年に国家事業として発足した。

 

編纂事業は川島皇子(かわしまのみこ)忍壁親王(おさかべしんのう)ら6人の皇子に加え、中臣大嶋(なかとみのおおしま)上毛野三千(かみつけののみぢ)ら6人の官人。

 

その後40年かけて作成され、最終的には天武の子の舎人親王(とねりしんのう)がまとめあげた。

 

 

 

ここまで『古事記』『日本書記』の成り立ちを見てきましたが、古事記は文学的色彩が強く、日本書紀は記述の仕方も古事記とは異なり、神話部分を除き、年代を追っていく編年体で記述されている。

 

40年という歳月をかけた大プロジェクトだった日本書紀は丁寧に正確な記述がされたというように思える。

 

しかし、一部の内容には明らかに自分たちの都合のいいように改纂された節がある。

 

 

では次回は「記紀」がどこまでが信用できるのか?考察していきましょう。

 

次回の記事でまたお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

 

ブログランキングにも参加しています

 面白かったら応援お願いします

 


古代史ランキング


神社・仏閣ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

今日2月11日は建国記念日ですね。

 

今からからさかのぼって二千六百八十年前、神武天皇によって日本建国が成された。

とされています。


その長さは世界の類をみない長さであり、単一王朝(天皇家)で二千年以上続いているのは日本だけである。
二番目に長くてデンマーク王家で千年です。


年表です。下の赤い帯が日本です。途中で切れていますが、あれが現代まで続いているのです。


専門家の中には建国二千年以上ということを否定派もいる。それは『日本神話』、つまり古事記や日本書紀に記された神々の話をそのまま鵜呑みにできないということ。

そりゃ天上界から降臨し、槍で陸地(国)を作ったなんて、そのまま信じる人はほとんどいないと思います。
 
しかし、結論から言うと『日本神話』に登場する多くの神々は現存した『人』であった。というのが私のスタンスです。

記紀を編纂した者たちは本当の日本誕生の歴史を抹殺し、自分たちの都合のいいように編纂したのです。

官軍が作り上げた歴史が「正史」として現代に残っている訳です。

また、面白いのが『記紀』の逸話や天皇家の系譜には『ある者たち』の意図が入っているようです。

そこらへんはおいおい解き明かしていこうと思っています。

だからと言って、古事記や日本書紀が全くの嘘、空想の産物でもないのです。

100年前の歴史認識でも書き換えられている時代です。当然1000年前、2000年前以上前の歴史を調べていくことは大変な事です。

多くの日本人が学校教育の歴史の授業で教えられてきた『記紀』を中心にした書物や考古学上の歴史認識を改め、記紀の呪縛から解き放たれ、新しい歴史認識の元に立ち返らないといけない時代へと来たのだと思います。

我々日本人がどのような形で今に至るのか!!

ハッキリ言ってこの国は渡来人によって創られています。それは最新のDNA研究でも証明されてきています。

原住民だった縄文人でさえどこからか海の彼方からやってきてこの地に住みついたのです。

また人類誕生にも大きな秘密が隠されているように思えます。

固定観念に囚われた現代人の常識で考えるとわからない超古代の文明があり、多くの謎がこの地球の歴史にはあるのではないでしょうか!

では次回の記事でまたお会いしましょう。

 

サイナラ、サイナラ。

 

 

ブログランキングにも参加しています

 面白かったら応援お願いします

 


古代史ランキング


神社・仏閣ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村