国破れて山河あり 城春にして草木深し

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世界史専門大学受験塾を経営する講師のブログです。歴史・美術・哲学についてアウトプットしていきます。

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浅田真央の感動的な演技に隠れて、東京都美術館の作品撤去の問題が報道されました。概要は以下の通りです。

政治的メッセージが含まれると見なされうる作品に、美術館が撤去を求めました。理由は「政治的宣伝との苦情が出かねない」「クレームがつくことが心配だった」ということでした(出典;朝日新聞・東京新聞)。アーティストは作品の一部の撤去を余儀なくされました。

ここでは、意思決定の結果、つまり撤去するべきか否かは問題とせず、意思決定の過程を問題としたいと思います。

判断は美術館が自ら定めた基準にしたがって決定すべきものです。その基準には「美とは何か」「アートとは何か」といった問題に対する東京都美術館の尊厳を懸けた理念が反映されるでしょう。そして、その発信は同館の存在意義といえます。

しかしながら、決定はそういった内的な理由ではなく外的な理由でもってなされ、その理念が発信されることはありませんでした。ここには2つの意味があります。

1つは美術館の自殺でしょう。同館はその存在意義を自ら放棄したのです。ただし、ここではこれも傍らにおいておきたいと思います。そもそも「美とは何か」「アートとは何か」の追求なしに現代アートは評価することができないからです。ダントーのいうところの、狭義の意味での「アートワールド」に参加する芸術家、評論家、学芸員、美術商などでなければ、問題を議論することは難しいでしょう。

もう1つは、いわゆる日本の意思決定の過程における欠点が露出したということです。こちらを検討しましょう。

この主題は、様々な人物が繰り返し論じています。ルース・ベネディクト『菊と刀』、山本七平『空気の研究』、丸山真男『日本の思想』、加藤周一『日本文化における時間と空間』『日本人とは何か』に明らかです。

日本人は内的な基準ではなく、他者からの評価を基準に行動しているとされます。それをルース・ベネディクトは「恥の文化」と呼び、山本は「空気」、丸山は「無責任の体系」、加藤は「現在主義」「集団主義」と表現しました。

日本人の意思決定は概ね次の通りです。まず、意思決定の場には「空気」ができます。それに対して、場の構成員は「言わない美学」と「言わないことによる責任の回避」によって「沈黙」します。その結果、「誰が決めたわけでもない決定」が成立します。誰が決めたわけでもないのですから、場の構成員には当事者意識・責任者意識が生まれません。したがって、もし失敗した場合は責任のたらい回しが行われます。そして反省なしに終わります。誰もが決めたのは自分ではないと思っているから反省しないのです。

これらは、今回の東京都美術館の意思決定に適合するものでしょう。恐ろしいのは、このような意思決定が未だに続いている以上、太平洋戦争はもう一度起きかねない、ということです。別な言い方をすれば、もし、意思決定者が政治指導者、日本の「空気」が「中韓許すまじ」であったら、開戦という決断もなされうるということです。そして、太平洋戦争はまさにそのようにして開戦し、戦艦大和も無意味に出撃、終戦後は反省なしに終わったのです。

ここでは、繰り返しますが、結果は問題としていません。表現の自由を擁護する気もありません。が、今回の決定の過程には「主体性なき日本人」が露呈した出来事としてとらえることができるでしょう。