バカボンヒデポンアンポンタンのブログ

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2、土浦の出島ゴルフ場にて

《アチャ!~~~こらまたヤバイことになるぞ……》

早朝の土砂降りの雨の中、俺たち30数人はゴルフ場のコース内の三箇所に俺の指揮の下にプレハブ小屋を建て始めていた。へリコプターの爆音らしき音が雨雲の上から聞こえてきた。俺は、この早朝の土砂降りの雨の中で、と思いながら、仕事のはかどりはじめていたものの、不安になり始めた。

とゆうのは、轟音は遠ざかるどころか、次第に近づいてくる。俺は轟音の聞こえる方向を俯きながらじっと凝視していた。すると突然、雨雲を切り裂いてヘリがその視界に飛び込んできた。そして、車中から呆然と眺める俺の上空で旋回を始めたではないか。そして、次第に降下しながらの旋回に移ったへりの横腹に書かれた「茨城県警」のイニシャルが土砂降り雨の中の曇り空にも、はっきり見えた。俺は思わず、心の中でこう叫んだ。

それは、1995年・平成7年5月13日、茨城県土浦市新治郡出島村のゴルフ場での早朝の出来事だった。俺が娑婆に復帰してから10年以上たっていた頃のことで、当時、世間はオウムに対する一斉取締りの開始で大騒ぎしていた。

そもそものこの発端は、俺の母が亡くなった一年後の平成七年四月二八日に取り行う法事の話で、東京にいる兄がその話の件で其の年の3月頃京都にやってきたことにあった。

一〇歳年上の兄、幹雄は、77年11月、俺の京都拘置所時代に亡くなった父に替わって、又、俺の光徳小学校二年の時、京都での悉皆業を倒産させ、大阪守口市に夜逃げや本舗になった親父に代わり、子供の頃から好き放題、遣り放題、遣りっ放し放題の、風邪の向くまま気の向くままの風来坊のような俺を、父親替わりに面倒みていてくれた。

兄は平成元年に娑婆に復帰し、その後平成七年までには、東京での復活を順調に開始し始めていた頃であった。

その兄から「今度、茨城県のゴルフ場の仕事に掛かるんで、現場の総指揮官でやれ」と言われた。兄が娑婆に出てからは彼の仕事を手伝っていた俺は、もちろんその話に乗った。

兄が懲役に行く前は、八幡商事という会社の会長であった兄は、現役ヤクザでもないのに「その世界」では有名人だった。山口組三代目の田岡組長の下で若頭補佐を務めていた菅谷政男の知遇を得、その金庫番として、関東、関西を軸に全国を股にかけ、精力旺盛に活動していた。

当時「戦後最大の」倒産といわれた1974年の日本熱学の倒産も兄が仕切ったものである。俺はヨーロッパからアメリカを経由して一時帰国していた。

その際、他人の旅券三通とこの整理の手伝いで億の金を稼ぎ、日本の仲間内にその内の幾らかの金をほり、残りの金と旅券三通を持ってその夏頃ロンドンに旅立った。

企業倒産に兄が乗り出すと、その筋の整理屋もみんな引っ込むほどの八幡商事の看板、名前には威力があった。

こういうと、兄はいかにもイケイケでコワモテの人間のように思われるだろうが、実はそうではない。

俺は兄と一緒にその筋との緊迫した交渉の場に立ちあったことが一度もない。しかし、八幡商事関係者の誰に聞いても、どんな緊張するようなコワモテ連中が多数いて、彼らに包囲されながらのホテルでの交渉でも、こちらの数を頼み動員する訳でもなく、又、一度として兄が怒ったり、荒い言葉を吐くのを聞いたことがない、とのことである。

相手がいかにコワモテに出ようとも、何時も穏やかな表情で相手の言い分をじっくり聞き、穏やかな口調でこっちの言い分は、その言い回しは極めて優しいのだが、その中身の主張はエグイものなのである。そうして、結局は兄のペースに取り込んでしまうのである。すぐに、権力や権威に対しては「何ぬかしとんじゃ!そんなアホな話聞けるかい。」と口走るホットな俺とは大違いで、身内ながらそのクール仕事ぶりに感心するような話を兄の会社関係者の誰からもよく聞かされていた。

また、兄は仕事に関して異常なほど熱心だった。社会現象に関しての新聞記事は隅から隅まで熱心に読み拘置所でも刑務所に入っても六法全書を手放さず、常に法律の齟齬、矛盾や抜け穴を研究する。そして、ある事件に関して法律の齟齬、矛盾や抜け穴を突けば裁判に勝てると判断した場合は、獄中から弁護士や司法書士に「この法律の齟齬や抜け穴を研究してくれ」と連絡して、さらに完璧を期す。こうして民事裁判に勝ったケースは多かった。

兄はそこいらの弁護士などよりはるかに法律のプロだった。国に、裁判所が行う競売手続きの執行法を変えさせたのも、土地や建物に対する賃借権という法律概念も変えさせたのも兄である。このゴルフ場のプレハブ建築も、そんな兄の法律の抜け穴を突いた仕事だったのである。

兄から聞いた話はこうだ。八幡商事は、債権代わりに譲渡を受けたゴルフ場コース内の土地三筆約3000坪を土浦に所有していた。が、それはゴルフ場側からその譲渡に対して提訴されており、言うところの事件ものの物件である。

それを短期決戦で銭を上げてしまう、裁判所の判断を待つまでもなく実力、自力救済で金に換えてしまえ、ということだ。それも、威力業務妨害罪にならないような形で合法的に営業妨害してでもやってしまうという、結構ヤバイ仕事である。具体的には、裁判中の係争地の物件(三筆約3000坪)に占有をかける。それも、合法的な営業妨害的占有をかけ、それをゴルフ場に買い取らせる話を纏め上げるよう兄から依頼を受けたわけだ。その際、兄は、 「今なら、オウム事件の捜査で忙しい当局は動きにくいやろ。」と言った。


平成七年・1995年4月中旬のある日、俺たち八幡商事軍団30数名は、夜陰に乗じて、出島ゴルフ場にトラックや車で入り込み、そのゴルフ場との係争地三箇所3000坪に、真っ暗闇のゴルフ場のコースの中を、サーチライトと位置図を使い、高い杭を打ち込み、杭と杭との間を紐で縛り囲い込み、俺たちの土地の所有部分を明示して、看板を上げた。それは朝まで掛かる仕事であったが、なんとかやり遂げた。

そして、その朝一番に、総支配人が出社してくると、俺は、ゴルフ場のクラブハウスにきた彼に挨拶をさせてもらいに行ったのだ。

「ゴルフコース内のうちの土地部分に無断で立ち入らないで欲しいのや。其の点監視させてもらいまっせ。」と。

勿論、このゴルフ場にこの土地を買い取らせるか、使用料を取るための、自力救済行為として実行されたものだ。関西やくざ風に云えば「早いとこ銭をあげたれ」ということを目的にしたものだ。正に「悪人正機」ではなく「悪人勝機」となるはずであったのやが・・・・・・。

その翌日から俺たちは三人を一組として一日一度交代のローテイションを組み、その現場の監視体制を敷いた。

ところが敵もさるもの、ゴルフ場側は、従業員ら全員、何十名もの人間が、その一週間後くらいに、新聞によれば、平成7年5月2日とのことであるが、自力救済と称して、ゴルフ客が帰った後の夜の6時か7時頃、囲ってある土地の紐を取り外し、杭を抜き始めたからである。

たまたま、俺と二、三名のものが当番として、車中で、ゴルフ場のコース外で見張っている時、この騒動が、敵の反撃が始まったのだ。

ありゃ~~こらヤバイがな、直ぐ東京に連絡して援軍を求めないかんとなり、連絡をとりながら、ゴルフ場の連中に対して「お前らなにをしとんじゃ!!人の杭や紐外して持っていったらドロボやないか!!警察に捕まるぞ!!」などと、勝手なことを云い恫喝しながら、敵の実力行使を阻止せんと試みたが、多勢に無勢、敵はドンドン杭を抜き、紐を外し、一箇所に集めだすのである。この押し合いへしあい遣っていると、東京から援軍が車で続々と駆けつけてくれるが、物凄い数のパトカ、ポリも遣ってきて、ゴルフ場内は、真夜中になっていたにもかかわらず、騒然とした状態になっていった。

俺はポリとゴルフ場の人間に対して「ここはうちの土地や、もうだいぶ前から、一週間も10日以上前から杭打って囲んであるのに、それを抜いてとるのや。これ、器物損壊やし、泥棒とちゃうんかいな」と、これまた、既成の事実を振りかざし、ポリとゴルフ場を攻め上げる。

ポリは中立を装い、責任者同士が、穏便に話し合ってくれ、ということになり、ポリの立会いの下に、俺は、敵の、ゴルフ場の責任者と一時間くらい話しあう。結論は、ゴルフ場は、杭を抜いたところに低い杭を自分らで打ち、紐は張らないが、プレー客には、全く意識されないような状態にする、又、杭の中の芝を刈るときは、俺の許可を取って、芝を刈ることとする、という事実上俺たちの側の占有使用権を認める内容の文書を交わしたのである。

そしてゴルフ場側と俺たちは共に、仲良く低い杭を打つのに共に協力しあって明け方近くまで作業したのである。

この話を、俺の報告を聞いた兄は、兄の会社の社員らに聞くところによれば、決していい仕事をしても褒めないとの事であったが、今回のこの俺の仕事については、「これで、9割方上手く行ったな。寿雄いい仕事したな。」と褒めたのである。

こうなれば、この三箇所に豚小屋や鳥小屋のような悪臭を放つような施設を作らん限り、威力業務妨害にならない。というのは既成の事実を積み上げた結果、法的な土地の名義に関しては内のものであり、警察の立会いの下に作り上げたゴルフ場の現実の現場の状況に関しても、さらにその点に関しても念書も取っており、ビルを建てようが蔵を建てようがこちら側の勝手だというように判断した。

それを実行する前にこのゴルフ場の代理人弁護士等と交渉せい、ということになり、新橋にある民主党の千石弁護士が関係する大きな弁護士事務所で、沢山の弁護士らと交渉することとあいなった。

それは、平成七年五月の連休開けの六日だったと思う。「これは短期決戦や」と兄は言っていた。

しかしそれでも、交渉に臨む俺としては、最初から兄の会社名義の、この三筆を買えと言うわけにも行かず、交渉の端緒として、金額を明示せずに、今までゴルフ場が勝手に利用使用してきた土地の、使用料の、しかも相場の支払いを求めた。

さらに、その回答が一週間以内になされない場合には、この三筆の土地にうちの監視小屋を建て、その土地に勝手に立ち入り使用することを認めない旨も通告しておいた。

三日四日経つも一向に回答がなされない。又、こちらから連絡するも代理人弁護士とは連絡がとれない。そこで、期限の一週間後の5月13日に、プレハブ建設作戦決行の準備を始めた。

そしてその前日に代理人弁護士らに最終的な回答を求めたが逃げ隠れしてしまったのか、やはり電話するも連絡が取れない。

しかし既に「采は投げられた」のだ。早朝一番、雨の土砂降りの中を、俺たちはトラック数台と乗用車6、7台で乗りつけ、ゴルフ場のクラブハウスの前を通り過ぎ、コース内の杭打ちつけてある三箇所にプレハブ小屋の材料を置いて、そこに立てる準備態勢に入り、プレハブ小屋をたてはじめたのである。

そして暫くすると、ヘリと思われる爆音が、土砂降雨の雨雲中から聞こえてきて、突然、俺たちの作業している上空を旋回し始めてきたということだ。

俺としては警察であろうとなかろうと、仮に逮捕されようとされなかろうと、建ててしまい、そのプレハブ小屋の所有権保存登記をすれば、勝と踏んでいたのだ。

というのは自分名義の土地に、しかも占有を確保した、其の点をゴルフ場が認めた土地であり、俺がプレハブを建てようがビルを建てようが、全く勝手であるからであり、そしてその所有権保存の登記を法務局でやってしまうと、敵はさらにその所有権に対して、土地の係争に関して勝訴した後でもそのプレハブ小屋に対する建物対する収去明け渡し訴訟も提起して勝訴してから、その着手し、その執行をせねばならなくなるからだ。又敵ゴルフ場が勝訴するとは限らない。

一応、日本は法治国家なんだから。憲法と法律の理屈で成り立っている国なんだからだ。

ヘリが飛来して上空を舞い、確かにヤバイことになったものの、プレハブ小屋を完成させるように命じておいた。警察が来て、中止命令が出されても、依頼を受けた大工職人だから、注文主の中止命令ない限り、中止できないというように、大工棟梁その他職人らにも知恵をつけ、そう云っておいた。

そうする内に、土砂ぶる雨の中を多数のパトカがドクドクとゴルフ場のコース近くに入ってきた。俺は、仲間内の車の一台の中で、警察の動きを監視していると、土砂ぶる雨の中を奴らは仕事をしている職人らに作業中止するように何度も何度も命じているようだった。

しかし彼らは立派にその中止命令を無視してプレハブ小屋完成に向けて作業続行しているのである。

「既に一部金をもらい俺たちが請け負った仕事だから、中止するには注文主に聞いてくれ」などと、俺の仲間内の大工棟梁が警察官に云っていたとのことである。

そうこうすると、其のうち、俺たちが留めていたトラックや乗用車拾数台の車の一台一台をチェックし、その中に人が居ると、責任者が誰かと聞き始めていた。

やっと、俺の乗っている車に近づいてきた警察責任者らしいものが、車の窓をノックし、話がしたいと云って来た。

俺は、致し方なくドアを開け中に入れ、話を始めた。

「貴方がこの作業の注文主か責任者か」「そうだ」と俺は答えた。

「作業を中止してくれ」「なんぜ、警察が民事介入できるのか。ここは俺の会社の土地で、そこに俺の会社のプレハブ小屋を監視小屋として建てるのが、なんぜあかんのや。これは民事の裁判所の仕事や。」「いや、営業妨害になるから、即、中止せい」「中止せいやって、そりゃ、権力を傘にきた俺たちへの、それこそ営業妨害やないか。いいかげんにせいよ。」といい、俺は車の外に出て、執拗に作業を中止させよとしている警察官や作業を続行している職人らに向って「俺がパクられても、あんた等の仕事は仕事やから、小屋を立ち上げてくれ!!」大声を上げた。そして、又車に乗り込んだ。すると責任者のポリは、ドアを開け車の外の雨合羽を着たポリに向って、己の時計をみて「全員逮捕、午前何時何分」と告げたのである。

《アッチャ!!~~~又パクラレタがな・・・・・・》又ヤバイ人生の始まりか、イヤイヤ、新しい戦いの人生の始まりなんやと、己の心に言い聞かせた。