齋藤イチ様の遺稿 -2ページ目

齋藤イチ様の遺稿

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 私共ここに存在する存在に対する(かかわる)約束であります 然して大小高低の相対にかかわる約束であります 三四五の自乗一つとは=ここに私共存在にかかる約束があります 然して実体としての責任がありましょう ここに大小のかかわりがありますと思います  つまり相対にかかわる約束であります 相対とは大小高低の相対に連なる約束であるのです それですからその約束を現在においてはたすのが正統であると思います  鶴見様の一つとして切れているのです 一つとして切れ目を持つのです

 索引:私共原罪がどこから出て来たのかと思ってみました 下部の一般人つまり相対的領域の面の絶対の命の一つになったところが価値存在としての存在の定義の変転によってつまり個人存在が価値存在として贖いに入る その意味において然してこの連なりにおいての絶対の面が然して実体者の立場として担い手の立場として原罪が生まれたのでありましょうか 相対面と絶対面の出会いとして然して一般的に然して全般的として世を継ぐ然して国を継ぎ家を継ぎする現在時点に立って宗教的担い手の立場として教祖を継ぐ時空間的然して歴史的変転のこの時においての担い手、継ぎ方の順位として批判されるものと思います 然して一般の相対領域での絶対との連なりこの時点に立っての教理に対する批判となるものでありましょう 当然の担い手として継がねばならぬ 然して生をかけねばならぬ時なのです