興味のアンテナが向いていないことには、あまりにも無頓着なままで高校生になった息子F。

とうとう修学旅行の行程案内が来る時期になった。

コロナの状況下でも、学校で検討されたいくつかのコースの中から長崎を選んだF。この行程表を見ながら家族で「行きは飛行機かな、新幹線かな?」などと話していると、

「ぼく、パスポート持ってないから飛行機のられへん!」

「国内はいらんよ。」

「だって、九州は海外とちがうん?」


家族にしばらく沈黙が流れました。

「それ、家の外で言わないで良かったなあ😅」

「だって、飛行機にのったことないし」

そういう問題だけじゃないと思うよ、F。

   7月7日に亡くなられた永六輔さん。
   
 追悼記事をあれこれ読みながら、なぜ私にとってこんなにショックなのか、ふと考えた。
 
 
私はラジオが好きである。子どもの頃は台所で朝夕母がつけていて、当たり前のように聞いていた。小四の頃、風邪で学校を休んだときに、母がトランジスタラジオ(古!)を貸してくれて、布団のなかでも聞いた。当時流行し始めた「欽ドン」などから音楽番組、やがては深夜番組、海外放送受信など、どんどんはまっていった。
   永さんはずっとラジオ番組を持ち、話し続けてこられたので、それもなんとなく聞いていた。物知りな、面白い人だという程度の認識だった。
   永さんを素敵だと意識したのは、大学生の時に通った「宵々山コンサート」だった。この人もラジオで好きになった高石ともやさん達が中心になってつくる夏の初めの祇園祭の頃の京都での野外コンサート。たくさんのアーティストを司会として次々紹介していったのが、永さんだった。印象的だったのが、ゲストの一人、由紀さおりさんの時。当時は、ちょっと昔に流行歌を歌っていた人、ぐらいの認識だった私にとって、永さんは彼女の音楽的な素晴らしさを説いて
くれた。彼女もテレビでは歌わない、童謡からジャズから、幅広く数曲を披露してくれた。何だか違う世界の存在を教えられたと思ったのを覚えている。
   私にとって三回目の年の「宵々山コンサート」は、車イスの友人と参加した。途中で、多分視力障害のある出演者の紹介を永さんがする際、詳しい内容は思い出せないが、「かわいそうな存在じゃないんだ」、と言うことをいっていたと思う。はっきり覚えているのは、「障害は、個性です、、、タモリも「障害」者です。」と言った言葉。(今思えば、本人じゃないのに、公の場でよかったのかななどという心配もちらっとよぎるが、永さんとタモリの人間関係においてOKだったのだろうと解釈している)。今から三十余年前、車イスの友人と町を歩けば、彼女らに「可哀想」という視線が突き刺さってきた時代に、また、電車やバスに車イスで乗ろうとすると乗車拒否されることもあった時に、「個性」といった永さんの言葉は、何とも新鮮に、心強く響いた。
  さらに、コンサートの最後、(宵々山コンサート自体がその年で最後だったのかも知れない。)観客もみんな舞台に上がり、突き抜けて、京都の街に出ていってくださいといった趣向だった。素敵だが、私達はどうしよう、と躊躇していると、スタッフ達が寄ってきてくれて、一緒に車イスごと彼女を抱えあげて舞台にあげてくれた。彼女と感動して語り合いながら帰ったのを覚えている。
   永さんの言葉と、それを裏打ちしてくれたスタッフ。それ以来、私にとって永さん達は、『本当の事を教えてくれる、かっこいい大人』となった。

   永六輔さんの追悼記事を読むと、子どもの「宇宙と天国はどうちがう(だったかな?)」という質問に答えて、「宇宙は行っても帰ってこられる。天国は帰って来られないところ」という解答を寄せた、という話があった。その天国にいかれたのであろうか。きっとラジオで近況報告したいんだろうな、などと考えてみた。そして、「かっこいい大人」のことをしばらく忘れてしまっていた、かっこよいとはいえない大人の私は、今それをぜひ聞きたい。




   
去年のクリスマスプレゼントを買いに行ったときに、自分が頼んだゲームソフトを手にレジに並ぶ父を見てしまった息子。そのとき彼は、「見てはいけないものをみてしまった❗」とつぶやいたのでした。
それで、今年、彼がどう出るかと思っていました。すると、「とーさん、サンタさんに伝言しといて。欲しいソフト、予約しとかないと買われへんみたいやで。」
そして、今夜は寝ずにサンタさんを監視しておくそうです。どこまでわかっているのやら。