終電を逃した夜の街には、少しだけ時間が余っている。
誰のものでもない時間が、駅前に溜まっていく。
改札はすでに閉まり、シャッターの降りた売店の前で、
人は立ち止まる理由を失う。
急ぐ必要も、帰る場所も、一時的に消える。
その駅前に、二十四時間営業の古い喫茶店があった。
看板の電球は何個か切れていて、
「コーヒー」の文字だけがかろうじて読めた。
店に入ると、夜と朝の境目みたいな空気が漂っている。
コーヒーと油と、少し焦げたトーストの匂い。
BGMなどまったくない、人の息遣いや心臓の鼓動まで聞こえそうな空間。
カウンターの奥に、白髪混じりのマスターがいた。
無駄な動きをしない人で、注文を聞くときも、返事は短い。
「ブレンドで」
「はい」
それだけだった。
店内には、同じような顔をした客が何人かいた。
仕事帰りのスーツ姿。
キャリーケースを持った若い女。
何も持っていない男。
誰も会話をしない。
視線も交わさない。
ただ、始発までの時間を、それぞれのやり方でやり過ごしていた。
俺はコーヒーを飲みながら、時計を見ないようにしていた。
時間を確認した瞬間、この夜が
「ただの待ち時間」になってしまう気がしたからだ。
マスターは、客が入れ替わっても、同じ速度でコーヒーを淹れていた。
急がない。遅れない。
まるで、ここだけが街のリズムから切り離されているみたいだった。
ふと、隣の席の男が立ち上がった。
何も言わず、伝票を置き、ドアを開ける。
外はまだ暗い。
その背中を、誰も見送らなかった。
やがて、空がわずかに白み始める。
始発の時間が近い合図だ。
マスターがぽつりと呟いた。
「もうすぐですね」
それが、今夜この店で聞いた、唯一の言葉だった。
店を出ると、街は何事もなかったような顔をしていた。
終電が停まったことも、誰かがここで時間を潰していたことも、
なかったことにするみたいに。
駅へ向かう人の流れに混じりながら、俺は思った。
この街には、確かに“止まる時間”があったのだと。
終電の停まる街は、朝になると消える。
でも、あの余った時間は、今もどこかで、誰かを待っている気がする。
