いろいろな選択
終わってしまったこと、失われたもの、過ぎてしまったことは、どうにもならない。色々なことが悔やまれる。昨年の1月、母に癌が見つかって即日入院することになった。子宮体癌なら切除手術をすれば快復が見込めるという説を、かなり楽天的に信じた。ただ、結構進行はしているので抗がん剤である程度落ち着かせてから手術ということになった。母は元々体格が良く我慢強い性格も災いして、緊急入院の段階で相当な腹水が溜まって以前から痛みなどもあったことを家族も気づかず本人も言わないままだった。病院も嫌いだった。母の兄弟の人脈で、癌手術執刀数が多い有名な医師に主治医を担当してもらうことになった。しかし、詳細な病状や治療方針の決定に関しては母と母の兄が共有しており、私たち家族は母から経過・結果を聞く状態だった。この時点で情報共有やセカンドオピニオンの提案を母や主治医に強く求めるべきだったかもしれない。薬剤治療の期間は、ある程度病状も安定していたので外出許可をもらって母の好きな外食に何度か出掛けたりもした。さすがに薬剤点滴後の数日は色々な副作用でしんどい様だったが、まだこの頃は食欲もあり院内で軽い運動をしたり希望があった。私は脳天気に考えていたので、手術や治療について少し迷いがあるような母の言葉に対しても「手術で取っちゃえば良くなるよ」と気楽に声を掛けるだけ。たいして世間の症例や闘病経験談、手術と投薬治療に関する是非・それぞれの問題点や適性なんかを調べることは殆ど無かった。そして、ついに手術。父によると摘出した癌組織は相当な量だったらしい。手術のあとから排便・排尿機能に支障が出るようになった。後に週刊誌の特集記事を見たところによると、子宮体癌の手術は腎臓などの周辺組織に傷がついたりして後遺症が出ることが多々あるそうだ。そんな話も、私は知らなかった。母とその兄というか叔父は聞いていたかもしれない。食欲もだいぶ減ってしまった。母は美味しいものや外食が好きなので、それが失われたことは相当精神的に落ちたのではないかと思う。ただ、半月程でその状況にも慣れて体調も落ち着いてきた。そこで、さらに治療効果を上げるために他の治療方法も試してみるという話になった。免疫療法という新しい投薬治療で、別の病院に行かなければならなかった。隔週で一旦退院し、車で遠方の病院まで治療を受けに行った。1回の投薬点滴で15万…!冗談かと思った。しかも母には合わないのか、癌進行のほうが早いのか、それ以外の後遺症・副作用のせいなのか、みるみる体調は悪化する一方のような気すらした。そして、5回1セットの免疫療法の4回目は体調不良によりキャンセル。数日後、母は自ら元の病院に再入院を決めた。そんな状況でも、私は仕事で地方に行ったりしていた。私の代わりなんてどうにでもなるのに。ついに母も「行かなきゃダメなの?」と聞いてきたりした。母がそんな弱気なことを言い出す時点で、状況は私が思うより数段深刻だったのだ。本人は兄と主治医との三者会談で病状を把握していたので、自分のことはよく解っていた筈。それからは、どんどん目に見えて体力も落ちていくようで見るからに病状も悪化しているようだった。不安定な仕事をしている私でも夏場はなかなか忙しく、毎日病院に顔を出すことはできなかった。殆ど食欲のない母から「スイカ食べたいから買ってきて」とメールが来た日も病院には行けず、希望に応えられなかった。そして、急遽初めて母の兄・父・主治医の三者会談があった。「病状は極めて深刻、2~3日中にどうこうという訳ではないが余命1ヶ月の覚悟を」ということだった。正直、その週に母に会いにいったとき「緩やかに死へ向かっている」という印象を自然と感じていた。事態の重さに気づいたときには、もうとっくに遅かった。翌日、仕事帰りに病院へ立ち寄った。週末はまた仕事で遠方へ行かなければならないので、とりあえず母に報告するくらいの気持ちではあったものの、前夜に会談の結果を聞いていた私は平常心でいられる自信は無かった。いつもどおりに母の病室を訪れ、自分は軽食をつまみながらたわいもない話をした。入院して以来の日課となっていた脚のマッサージをした。体格の良かった母の脚は骨と皮だけみたいに細かった。やがて、やっぱりいつもどおりに「もう遅くなるから帰りな」と母から促された。「じゃあ、明日から名古屋だけど週明けには戻るからその足で寄るからね。また月曜日にね。」と声を掛け、手を振って部屋を出た。母もベッドに寝たまま弱々しく手を振っていた。土曜日。名古屋に向かう新幹線の車窓からよく晴れた空と富士山の写真を撮って、母に送った。返事は来なかった。この日はかなり体調が悪く、嘔吐を繰り返したりしていたらしい。日曜日。早朝、妹からの電話で起こされた。朝から容態が急変、病院から至急駆け付けてほしいと連絡があったとのこと。2~3日中にどうにかなることはないだろうって言ってたのに…。まずどうすればいいのか全然整理できなかった。とりあえず落ち着かなきゃ、と思ってホテルの部屋で前夜に買っておいた冷製パスタとサラダを食べた。関係各所に連絡を取って、緊急事態につき離脱したい旨を伝えて引き継ぎ事項の諸々を確認して…急ぎだから遠いけどタクシーで行って新幹線も乗変しなきゃ…もうめちゃくちゃだった。乗変なんて要らない、とりあえず新幹線に乗れば良かった。結局少しずつ積み重なったくだらないタイムロスで、肝心なときにも間に合わなかった。車内で妹からのメールで母の臨終を知らされることになった。本当に親不孝な娘でごめんなさい。たとえ病気が克服できなくても、もっと良い最期を迎えられるように出来ることがきっと幾らでも沢山あったと思う。母の人柄ゆえか、院内の看護師さんたちが大勢見送りにきてくれたことは有り難かった。でも、あの主治医の先生の雰囲気は私的には信頼していいのかどうか、最後までわからなかった。もっと母とも、色々な人達ともちゃんと話せれば良かったのに。大切なことなんか何ひとつ、全然聞けなかったし話せなかった。二度目の、後悔先に立たず。