「あの日みた夢」
この世界には、ルールがある。それはとても残酷なもので、多くの人が傷つかないように寄り添っているのだけど、まれにそのルールを外れてしまうことがある。
ぼくの場合、それは一匹の犬になったことだった。血統書つきでもなく、ただの小汚ない野良科の動物。
犬になるなんてことが現実に起こったとは思えないから、すべてが夢だったのだろう。 限りなく本物に近い、本物みたいな夢だ。ぼくが一日だけ犬になっていた、という記憶はとてもあいまいなものだし、夢だと考えるのがごく自然だ。
ただし、ぼくは忘れはしない。あの鮮明なまでの痛みや、肋骨が派手に折れたときのことを、いまでもはっきりと思い浮かべることができる。
すべての人が嘘を見破れる生き物だったとしたら、この世界は争いだらけになってしまうだろう。本心では嫌いだとしても、「そんなことないさ」という思いやりの気持ちが、人とのつながりを滑らかにしている。けれども、犬にそんなもの必要ない。ぼくたちは、今朝食べたご飯の中身だって覚えていない。
あの日に起きたことは何ていうか、ぼくの価値観を根底から覆してしまった。それで損をしたほうが多いと思うけれど、むしろ個人的には得をしていると思っていた。ぼくの心にとても深い溝のようなものができてしまったからなのかもしれない。どんなに優しくされても、裏に意味があるんじゃないかと勘ぐってしまう、そんな自分に嫌気がさした。
ぼくは、ある日一匹の犬になっていた。あたりは雑草が生い茂り、川のせせらぎが聞こえた。どうやら、ぼくが通う高校近くの空き地らしかった。遠くではサッカーをしている学生がいた。
誰もぼくには気づきはしなかった。口から発せられる言葉は意味をなさなかった。しばらく思考錯誤して、ぼくは考えることをやめた。それから、最初の空き地へと戻った。もしかしたら、元に戻れるかもしれないと思ったからだ。
そこで小さな女の子が倒れていた。跨がっているのは、ぼくと同じ高校の制服を着た生徒だった。ランドセルを取り上げて、言うことを聞かせようとしていた。はために見ても、仲良く遊んでいるようには思えなかった。
ここは雑草が生い茂る人目につかない場所だ。当然人が近寄ることもなく、少女がどんないたずらをされようと、気づく人間はいない。
ぼくはその生徒を何としてでも追い払うべきだと思った。噛みついてやってもいい。それくらいの力はあると思ったし、実際ぼくが吠えるなり、彼は怖じけづいてしまった。
とにかく無我夢中だった。生徒は転びそうになりながら、散り散りに逃げていった。偉そうにしておいて、やられそうになると卑屈になるなんて、馬鹿だと思った。気づくと、少女がぼくの頭をなでていた。
「ありがとう」とその子は言った。
その言葉は、ぼくの心に深く染みこんでいった。別に褒められたくてやったわけじゃないが、こんな気持ちを抱いたのは初めてだった。
目覚めは最悪だった。どうも草むらでそのまま寝てしまったらしい。
必死に振り向くと、さっき追い払ったはずの生徒がバットを片手にもって、仁王立ちをしていた。まわりに数人の仲間が見えた。彼らの手にも同じようなバットが握られていた。
「さっきはよくもやってくれたな」
ぼくにバットを振り下ろした生徒は満足そうに舌を舐めまわした。反撃する力もないことを見てとったのだろう。
もう一度、今度は脇腹あたりを強く打った。肋骨が折れる音があたりに鳴り響いた。
ぼくは咳とも、叫びともつかない声をあげた。地面に大量の血が吐きだされた。身体中の感覚が麻痺してしまったみたいだった。頭のなかで、「どこを間違ってしまったのだろう」という言葉が駆けめぐっていた。高らかに笑う生徒の目は少しも笑っていない。
「いい気味だな、おい?」
ぼくは必死に威嚇をしようと、大声を張り上げたけれど、ぜいぜいと荒い息をするだけで、まるで吠え声にならなかった。それがますます相手の興奮を煽って、ひどく気に入らなかった。
「なあ、やっちまおうぜ」と別の生徒が言った。
「そうだな。放っておいたら、危ないしな」
こちらが弱りきっていると踏んだのだろう。生徒が不用意に近づいてきたので、爪で思いきり肌を引き裂いた。首のあたりの皮膚がぱくっと割れ、血しぶきが舞った。
生徒は地面に突っ伏した。他の者は恐怖に固まって、動けないでいた。ぼくは死力を尽くして、足に力を込めた。逃げるなら、今しかないと思った。
最初のバットをもらっていなかったら、振りきることもできたろう。そんなことを考えることが、すでに間違っていたのだろうか。ずるりと足を滑らし、ぼくはもう立ち上がることすらできなかった。
あの少女は、ぼくが助けた。それは誇るべきことだ。耳の片すみに嫌な笑い声が聞こえた。
怪我をした生徒が憎悪のまなざしを向けていた。まだ怯えた表情は残っていたが、敵意は十分だった。バットを持つ手に力がこもる。 ぼくは正しいことをしたにすぎない。それとも、何か間違っていただろうか。
ぼくの頭をバットがかち割る瞬間、そいつを全力で睨みつけてやることが、ぼくにできる唯一の反抗だった。
ホールルームの開始をつげるチャイムが鳴った。生徒はすぐに着席しないで、くだらない会話をしたり、携帯をいじったりと思いの行動をとっていた。
前田君は、ぼくの親しい友達だ。彼はひとつ前の席に座っていた。サッカー部に入っていて、話もすごく上手だったし、女の子にも人気があった。彼に憧れていた。いつかぼくもあんな人気者になれたら、と思っていた。
だけど、ぼくは彼がバットを振り下ろしたときの表情がどうしても離れなかった。小さな女の子を草むらに押し倒してズボンに手をかけていたことも。
あれはきっと夢だったのだ。
彼が悪いわけじゃない。
前田君の首には、真っ白い包帯が巻いてあった。つい先日、学校帰りに怪我をしたそうだ。
「それ、犬にでも襲われたの?」
ぽつりと、口に出していた。
「なんで、お前そんなこと聞くんだよ」
ぼくはその包帯に隠された鮮やかな切り口を思い浮かべた。ぼくの爪によって、真っ赤な血が飛び散ったことは、決して忘れていない。
「別に、そんな気がしただけだよ」
―――限りなく本物に近い夢。
その夢をみた人は、きっと世界のすべてが色褪せてしまうに違いない。
なぜなら、このぼくがそうだからだ。