<事実の概要>
被告人は、当時66歳の独り暮らしの女性Aから七五〇万円の金員を偽罔的手段で借り受けたが、その返済のめどが立たなかったことから、Aをして自殺するよう仕向けることを企て、AがBに金員を貸していたことを種にして、それが出資法という法律に違反しており、罪になると三,四ヶ月刑務所に入ることのになるなどと虚偽の事実を述べて脅迫し、不安と恐怖におののくAを警察の追求から逃がすためという口実で連れ出して、一七日間にわたり諸所を連れ回ったり、自宅や空き家に一人で潜ませ、その間体力も気力も弱ったAが知り合いや親戚と接触するのを断ち、もはや逃げ隠れする場がないという状況にあるとの錯誤に陥らせたうえ、身内に迷惑がかかるのを避けるためにも自殺する以外にとるべる道はない旨執拗に慫慂してAを心理的に追いつめ、犯行当日には、警察の追求が間近に迫っていることを告げて恐怖心を煽る一方、被告人もこれ以上庇護してやることはできない旨告げて突き放したうえ、Aとしてもこれ以上逃れる方途はないと誤信させて自殺を決意させ、A自ら農薬を嚥下させて死亡させた。
右事実につき、第一審は、強盗殺人罪の成立を肯定したが、その前提となる殺人罪の成否につき、被害者を欺罔して心理的に追い詰め、自殺を慫慂して自殺させた場合は殺人罪(間接正犯)が成立するとした(鹿児島地判昭和六二・二・一〇判タ六三六号二三四頁)。これに対し、弁護人は、被告人のAに対する強制は心理的強制にとどまり、Aを物理的に行き場のないところまで追い込む程の積極的な偽罔行為をしていないうえ、A自身は正常な判断能力を有し、Aの自殺は真意に基づくものであるから、自殺教唆にとどまる旨等主張して控訴したが、本判決は、次のように判示して、控訴を棄却した(確定)。
<判旨>
「自殺とは自殺者の自由な意思決定に基づいて自己の死の結果を生ぜしめるものであり、自殺の教唆は自殺者をして自殺の決意を生ぜしめる一切の行為をいい、その方法は問わないと解せられるものの、犯人によって自殺するに至らしめた場合、それが物理的強制によるものであるか心理的強制によるものであるかを問わず、それが自殺者の意思決定に重大な瑕疵を生ぜしめ、自殺者の自由な意思に基づくものと認められない場合には、もはやもはや自殺教唆とはいえず、殺人に該当するものと解すべきである。
事実関係によれば、出資法違反の犯人として厳しい追及を受ける旨の被告人の作出した虚構の事実に基づく偽罔威迫の結果、被害者Aは、警察に追われているとの錯誤に陥り、更に、被告人によって諸所を連れ回られて長期間の逃避行をしたあげく、その間に被告人から執拗な自殺慫慂を受けるなどして、更に状況認識についての錯誤を重ねたすえ、もはやどこにも逃れる場所はなく、現状から逃れるためには自殺する以外途はないと誤信して、死を決したものであり、同女が自己の客観的状況について正しい認識を持つことができたならば、およそ自殺の決意をする事情にあったものとは認められないのであるから、その自殺の決意は真意に添わない重大な瑕疵のある意思であるというべきであって、それが同女の自由な意思に基づくものとは到底いえない。したがって、被害者を右のように誤信させ自殺させた被告人の本件所為は、単なる自殺教唆行為に過ぎないものということは到底できないのであって、被害者の行為を利用した殺人行為に該当するものである。
(別冊ジュリストNo.117刑法判例百選Ⅱ各論第三版より引用 有斐閣)