ガリレオ・ガリレイ (4)


「星界の報告」(1610年3月12日 ヴェネツィアで出版)


月面の観測


・ガリレオが倍率約20倍の望遠鏡を完成したのは、1609年11月末ごろとされる
 ガリレオは、この望遠鏡によって1609年12月1日から月の観測を始め、12月に月面のスケッチを描き1610年1月初めのころにそれをまとめた


○月面は滑らかで完全な球体ではなく、地球の表面のように凹凸があることを観測した


「くりかえし調べた結果、つぎの確信に達した。月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体について主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、起伏にとんでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地面となんの変りもない」(「星界の報告」ガリレオ・ガリレイ著、山田慶児、谷 泰訳、岩波文庫)


天の川、星の雲


「3番目に観測したのは、天の河の本質、すなわち、実体である。わたしたちは、筒眼鏡によってそれを詳細に調べることができた。こうして、この眼で確かめることによって、数世紀のあいだ哲学者たちを悩ませてきたすべての論争に、終止符をうった。わたしたちは、果てしのない議論から解放された。銀河は、実際は、重なりあって分布した無数の星の集合にほかならない」(同上)

「これまで天文学者から星雲とよばれてきた星もまた、異常な仕方でまき散らされた小さな星の集団である」(同上)


木星の衛星の発見


・「星界の報告」で最も重要なことがらは、木星の衛星の発見である


 このことによって、アリストテレスの説が崩れた
 アリストテレスの説では、惑星はすべて地球のまわりを回っていて、ほかにはまわりを回るものはないとされる
 木星のまわりを衛星が回っていることから、これは崩れる
 また、木星のまわりを衛星が回っているから、木星は天球に付着して運ばれているのではない
 惑星が天球に付着して運ばれているということも崩れる


・ガリレオの木星の衛星の観測記録は1610年1月7日から始まり、3月2日までである
「1月7日の翌夜の1時に、筒眼鏡で天体観測中、わたしはたまたま木星をとらえた。わたしはたいへんすぐれた筒眼鏡を用意していたから、木星が従えている、小さいけれどもきわめて明るい3つの小さな星をみつけた(それまでは、ほかの劣った筒眼鏡を使っていたので、発見できなかったのである)。」(同上)
1月13日に、4つの星を見つけた
以後、3月2日まで、4つの星の観測記録が続いている
ガリレオは4つの星が、木星のまわりを回っていることを確信した


○ガリレオは発見した木星の4つの衛星をメディチ星と名づけ、この「星界の報告」をトスカナ大公コジモ2世にささげた


木星の衛星


 木星は太陽系の惑星の中で最も多くの衛星を持っていて、現在67個知られている
 さらに発見されるだろう
○ガリレオが発見した木星の4つの衛星は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばれている
 エウロパの表面には氷があり、氷の下には水が存在すると考えられている
 エウロパには生命が存在するかも知れない



○ガリレオはトスカナ大公の第1書記のヴィンタと手紙のやりとりをしており、1610年5月7日付の手紙で、「4メディチ惑星と他の観測について、3回公開講演を行ないました」と述べている
「わたくしが完成すべき主な著作は『宇宙の体系あるいは構成について』2巻、これは哲学、天文学、そして幾何学に満ちた膨大な構想です。『位置運動について』3巻、わたしが自然的運動にも強制的運動にも存在することを証明する非常に多くの驚くべき属性のいずれも、古代および現代の他のだれによっても発見されたことのないまったく新しい科学です。」
「機械学についての3巻、そのうち2巻は原理と基礎に属し、1巻はその諸問題についてです」
「『音と声について』『視覚と色彩について』『海の満干について』『連続の構成について』『動物の運動について』その他の自然学的主題についてのさまざまな小著作をもっています」
「わたしはどうしても研究を遅らせる仕事、とくにわたしの代りにだれかがなしうることからは免れたいのです」
「最後に、肩書とわたしの義務の範囲についてですが、数学者という名称のほかに、哲学者という名称を殿下がお加えくださるよう希望します


○6月5日、ヴィンタはガリレオに「ピサ大学首席数学者、大公付き哲学者」の肩書が与えられたことを知らせた
 1610年7月10日、コジモ2世によりガリレオは「ピサ大学首席数学者」とともに「トスカナ大公付き首席数学者兼哲学者」に任命された
 ピサ大学で講義したり滞在する義務が免除されていて、フィレンツェに留まっていてよかった


○ガリレオの発見への反論、異議


・最初に、保守的な天文学者や哲学者が異議を唱え、一部の哲学者は、望遠鏡で見ようともしなかった
 また、ガリレオのものと同じ性能の良い望遠鏡を持っていなかったため、検証することができなかったこともある


ケプラーの擁護


 ケプラーは適当な望遠鏡がなかったため、自分で観測することができなかったが、ガリレオの主張を認め、1610年5月3日、「星界の報告者との対話」を出版した


 ガリレオが試作した100以上の望遠鏡のうち、10台しか衛星を見るのに役立たなかった
 この10台のうちの1台がケルンの選帝侯に贈られた
 ケプラーが木星の衛星を確認したのは9月で、ガリレオがケルンの選帝侯に贈ったこの望遠鏡を使う機会が与えられたからである
 ケプラーはガリレオの発見を全面的に認め「木星をめぐる4衛星の観測記」を公刊した


土星の観測


・7月下旬、土星が3つの星(大きい円盤があり、それが両側で小さい円盤に接している)から成るように見えることを発見した
 望遠鏡の倍率が十分でなかったために、輪がはっきりと見えなかった