千一夜物語 その6 ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語(3)


★ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語(第807-814夜)(「完訳 千一夜物語10」、岩波文庫)


「ヌレンナハール姫と美しい魔女の物語」(第809夜)より


「この象牙の筒、金貨3万ディナール。これはその見せるところを見せまする。お買いのかたに御損はござらぬ。見んと欲する者は、見るを得ましょうぞ。これは象牙の筒じゃ」


 競売人が呼ばれてやってくると
「この筒の値段の3万ディナールは、最初の付け値でございまして、まことの値段は4万ディナールでございます。それ以下で手放してはならぬ、しかもそれを現金で払う人にしか譲ってはならぬと、命じられているのでございます」
 ハサン王子
「それにしても、この筒はいかなる点でそのように珍重に値し、どういう特異な点で注目を促すのか、知らせてもらわなければならぬ」
 競売人は言いました
「我が御主人様、もしあなたがこの水晶のはまっている端のほうから、筒をお覗きになれば、見たいとお思いになるものは何なりと、たちどころにかなえられて、見ることができます
「お前の言うことが本当ならば、私はお前の求めるだけの代金を払ってやるばかりか、手数料としてさらに1千ディナールを進呈しよう」


 ハサン王子は、ヌレンナハール姫を見たいと念じながら競売人の示した端を覗きました
 すると、浴場の浴槽の中に坐って、姫のお化粧をしている奴隷たちの手の間にいる、姫の姿が見えました。水と戯れながら笑い、手にする鏡を見ている、このように美しい、このように間近にいる姫を見て、ハサン王子は感動の極、思わず筒を手から取り落としそうになりました


 この筒こそは、世界にある最も不思議な品であるという証拠を得て、王子は旅を十年続けようと、全世界を駆けめぐろうと、このような珍品に決して出会うことはあるまいと信じて、買うことに躊躇しませんでした
 そこで、王子は競売人についてくるように合図し、旅宿に行くと、奴隷に命じて4万1千ディナールを支払わせました


 こうして、ハサン王子はこの象牙の筒の持主となりました


 美しいペルシアの詩を譜んじたりして、シーラーズの町で日々を過ごしたハサン王子は、故国に戻り、落ち合う先の3本道の旅宿に着きますと、そこには兄のアリ王子がおりました
 それでハサン王子は兄といっしょに、3番目の弟を待つことにしました



 ところで3番目の弟のフサイン王子はと申しますと、次のようでございます


 長い旅の末、王子が着いたところは、サマルカンド・アル・アジャムという町でございます


 フサイン王子は到着の翌日から、「大市場(バーザール)」と言う、市場に出かけました。一心に歩きまわっておりますと、自分の前2歩のところに、林檎をひとつ持った競売人を見かけました


 その林檎は、片側は赤く、別の側は金色で、西瓜ほどの大きさがあって、まことに見事なものなので、フサイン王子はすぐにこれを買いたくなりました
「その林檎はいくらだね」
「最初の付け値は、金貨3万ディナールです。我が御主人様。けれども、4万で、それも現金でなければ譲るなと、命じられております」
「なるほどこの林檎はいかにも美しく、このようなものは見たことはない。しかし、そんな法外な値段を要求するとは、お前はふざけているにちがいない」


 競売人がさし出した林檎の匂いは、まことに身にしみる、馥郁とした香りでした
「我が旅の疲れはすべて忘れた。母の胎内から今出たばかりのようだ。ああ、何という、えもいえぬ匂いだろう」


「それでは、殿よ、お聞き下さい
 実はこの林檎は自然のものではなく、人間の手によって作られたものなのです。ある大学者、極めて高名な哲学者の研究と不眠の果実なのでございます。この林檎のなかには、あらゆる薬草、有用植物、あらゆる薬用鉱物の精髄が含まれているのです
 ペストでも、じん麻疹でも、およそ何かの厄病にかかった大病人で、たとい瀕死の者なりとも、ただこの林檎の匂いを嗅いだだけで、直ちに健康を回復しないような者はないのでございます」


 ある人は「この林檎こそは林檎の女王で、薬のなかで随一の妙薬です。もうまったく望みのない病人たちでも、死の門から帰してくれるのです」と言うのでした


 たまたま、一人の盲目の中風病みの男が、運搬人の背負った籠に入れられて、通りかかった。競売人は素早く進みよって、鼻の下に林檎をさし出しました。すると、その病人は急に起き上がって、小猫のように運搬人の頭上を乗り越えて飛び下りると、両眼を熾火(おきび)のように見開いて、脚を風にまかせました

 そこでフサイン王子は、この不思議な林檎の効能を確信して「どうか私の宿までついてきてもらいたい」と競売人に言いました
 旅宿でフサイン王子は4万ディナールを払い、仲買のお礼として、1千ディナールの財布を与えました


 こうして不思議な林檎の持主となった王子は、隊商の用意がととのうとサマルカンドを出発し、兄のアリ王子とハサン王子の待っている3本道の旅宿に無事着きました


 そこで3人の王子は、互いの無事の到着を祝し合ってから…


…ここまで話した時、シャハラザードは朝の光が射してくるのを見て、慎ましく、口をつぐんだ