半身不随という絶望的宣告を受けても、リハビリを信じて再び立ちあがった…というブログ

半身不随という絶望的宣告を受けても、リハビリを信じて再び立ちあがった…というブログ

ケガから三年半の時が過ぎ、一番苦しかった頃のことを、忘れ始めている自分に気づいた…。あの時の孤独感や試行錯誤のリハビリの思い出を、少しでも書き残しておきたい。

骨が鳴るほど体が震えていても、

踏み止まる気持ちがあれば、武士は勤まる

(境屋太一 『豊臣秀長』)


COMBAT WRESTLING  THINK 2020-佐藤留美名対三宅靖志戦





難題の無い人生は、無難な人生

難題の多い人生は、有難い人生



Amebaでブログを始めよう!

OTは Operational Therapy の略で、手や腕の動作を中心としたリハビリプログラムの

ことである。

 

PT は Physical Therapy の略で、身体を起こす、立ち上がる、歩く等のリハビリで

移動手段を身体の状況に合わせてトレーニングしてくれる。

 

余り聞かないのが ST で Speech and Language Therapy と呼ばれる。後にも先にも、

所沢の病院では一回だけ、時間にして一時間少々の検査だった。

 

・ 名前、住所、家族構成、生年月日等々

・ 簡単な計算、暗算

・ 肺活量の測定、鼻口から吐き出す空気の量とバランス

・ 声の出具合、発声量の測定

・ どれくらい大きな声が出るか

・ 弁膜のコントロールによる食道・気道の操作

・ 水の飲み方

等々

 

話すこと、弁膜による食道・気道の操作、等が健全であることを確認してもらい、

脳の記憶もほぼ正常というコメントを頂いた。

 

ギリシャ・パトラで開催されたグレコローマンスタイル世界選手権大会の入場券が

いまも手元に残っている。2001年12月6 〜 9日の出来事だった。

 

イギリスへの出張が予定されていたので、その前に休みを取って観戦しようと考え

た。ツアーの企画は全て自分で行なった。

まずロンドンまで飛んで、ヒースロー空港からアテネへ…。

事前にパトラ周辺のホテルを予約しようとしたが、空室がないと断られる。少しずつ

離れた場所で妥協しようとしたら、アテネ〜パトラ間のコリントスという町のホテル

しかヒットしないので、空港で予約を入れバスに乗る。

 

初めての国ギリシャ、初めての町パトラを目指して、ゴツゴツ岩肌の目立つ風景の中を

高速バスでコリントスへ…。ホテルに荷物を置いて、急ぎバス停から乗り継いでパトラ

へ向かう。ギリシャ語の表記はまったく読めず、英語の行き先など書いていない。

片言の英語で前進あるのみの旅行者になっていた。

 

町の入り口に入ると、体育館らしき建物が目に飛び込んできた…。建物の周辺には

国旗が何十本も掲げられ、国際大会の場所だと察した。

バスの運転手に頼み込んで次の停車場で降ろしてくれと頼んだ。数キロ進んだ場所で

降ろしてくれたが、歩いていける距離ではない…。警官に聞くと英語が通じたので

「タクシーはどこで捕まえればいい?」と質問。「ない!この町にはタクシーがない

んだ。」

唖然とする自分。

 

歩ける距離じゃないなら、走るか。笑

 

笑いながら走ったのを思い出した。

 

 

 

四年くらい前、ケガをする前に同じセミナーで一緒だった小嶋さんの著者。

同じ机で隣の席に座っていた「同志」の作品は感慨深いものがある。

 

訳あって厳しい環境のブラック企業で営業という仕事を選び、生き残りの戦いを

繰り広げた。機が熟して一転、クリーン企業へと戦場を変えると、鍛えられた剣

を抜けばメッタ斬りで1,000人をゴボウ抜きして日本一になってしまう痛快さ。

 

カフェでコーヒーをすすりながら、一気に読んでしまった。

小気味よさが行間に踊っていて楽しい。

 

この本は直接手渡ししてもらって、小嶋さんの弾けるような笑顔が印象的だった。

もし、自分も本を書けたら、そのときは飲み明かしましょう!

 

 

 

    

まだまだ最終版ではありませんが、取り敢えずのアップ…

 

塚本裕昭(つかもとひろあき)

1956年青森県むつ市生まれ。身長177センチ・体重85キロ。魚座、血液型B型。

趣味は、旅、読書、映画、ジャズ、ランニング、スキューバダイビング。料理、ワイン。

ホノルルマラソン完走(4時間33分)、PADI.ダイビング200本+。

 

神奈川県立横須賀高校卒業。米国ワシントン州シアトル市、Shoreline College卒業。

日本工業大学専門職大学院卒(技術経営学修士・プロジェクトマネジメント専攻)。

横須賀の地で70年安保闘争・ベトナム戦争の異常を感じながら渡米、70年代後半のアメリカ政治経済の失速・混乱という惨状をアメリカ市民の目線で体感、貴重な経験を積む。

 

外資系企業のCIO(企業内情報サービス責任者)を歴任。ITスペシャリストとして、ロイター、マース、メルク(独)、デュポン、マイランに在籍。多国籍チームを率いての「SAP導入」「M&A(企業買収)統合」のエキスパート。英語コミュニケーション能力・交渉力は30年間現場で鍛えた。TOEIC925。

 

横須賀高校レスリング部、総合格闘技木口道場でレスリング選手として練習に励む。プロレスラー・谷津嘉章は一学年下。県大会優勝、関東大会二位。2000年シドニーオリンピック直前の三年間で15年間のブランクを跳ね返し練習を再開、グレコローマンスタイル85キロ級で全日本社会人選手権三位。天皇杯全日本選手権出場(最年長選手(43才=当時))、全日本選抜選手権六位入賞。

 

レフリーとして、アマ・プロ問わず、レスリング・サンボ・総合格闘技(コンバットレスリング、コンテンダーズ、戦極)の試合を数多く裁いてきた。観客が一万人超の横浜アリーナ、有明コロシアムのリングにも立ったことがある。マネージャーとして五味隆典をPRIDEライト級チャンピオンに、トレーニングコーチとして廣田瑞人(戦極)、神酒龍一(パンクラス)にもチャンピオンベルトを腰に巻かせた。

 

日本レスリング協会評議委員。国際交流委員会委員長。

アジアレスリング連盟(UWW-ASIA)副会長・エグゼクティブメンバー。アジア圏で開催される国際大会の監督責任を持ち、舞台裏を支えるスポーツイベントプロデューサー。

 

三年半前に不慮の事故で、頸髄損傷(C4)という大ケガをした。半身不随という一方的な宣告に反発、三年間のリハビリで完全社会復帰、アジア連盟副会長に再選。東京オリンピックの成功、再びレスリングが競技から外されぬため、アジア各国を飛び回る多忙な日々を送る。

 

 

 

2000年のシドニーオリンピックを現地で観戦、その臨場感や華やかさに圧倒された…。

翌年の世界レスリング選手権大会は、アメリカのNY@マジソンスクエアガーデンで男子フリースタイル・男子グレコローマンスタイル・女子フリースタイルを同時開催するという予定でいた。しかし、それは実現しなかった。なぜなら、9.11テロ事件の発生が起こったからだ。

 

NYが混乱状態のため、場所を欧州へと移し、開催時期・開催場所を分散する決断がされた。グレコローマンはギリシャのパトラで12月に開かれることになった。たまたまイギリスへの出張があったので、日程を調整し現地へ行くことにした。

 

いまでも忘れられない、冒険とドラマに満ち溢れた旅になった。

 

新宿の救急病院でも、所沢のリハビリ病院でも、髭剃りは朝7:00過ぎのセレモニーだった。

 

200gもない、せいぜい170g程度の重量が死ぬほどの重さに感じられた。重力に負けてしまって、手のひらに抱えて持つことも、顎の形に沿って髭を剃ることもできずに、落としてしまう。

アシスタントの学生が軽々しくできることは、地平線の遥か向こうの光景に思えた。

 

三カ月くらいたって、握力が少しもどったころ、順番待ちをしている時に黙って持ち上げてスイッチを入れた。

 

「あれ、塚本さん、いつの間に一人でできるようになったんですか?」

 

アシスタントの娘は返事も待たず次の患者のベッドに行ってしまい、翌日からは自分でやる作業になってしまった。

 

誰も気に留めないことが少し寂しかったが、そうやって自分のできることが一つ増えた…。

 

 

 

 

 

 

所沢の病院に移ってからは、ほとんどすべての身の周りのことはリハビリ対象で、最終的には自分でやることになっていた。順番の問題だけだった。

 

病院は看護師や理学療法士の学校も併設していたので、朝は実習生が研修ということで分担していた。顔拭きのタオルの配布と回収、電気カミソリによる髭剃り、そして歯みがきが三点セットだったと記憶している。

 

歯みがきは、ずっと看護師アシスタントさんにやってもらっていた。少し握力が回復してから歯みがきのチャレンジは始まった。

 

しかし、細いままでは操作が十分できないので、緑色のプラスチックの握りをはめて使うようにしていた。歯ブラシの先はタンポポと呼んでいたが、どこから当てても歯が磨けるようになっていた。

 

コップ一杯の水はアシスタントの学生が運んでくれるので、ゆすぎは自分でやりベイスンと呼ばれるプラスチック容器に吐きだす。

 

ベッドから起き上がって車椅子に移れるようになると、歯みがきは洗面所に移動して済ませるようになる。

 

 

見舞客は会社、家族、レスリング協会関係者等々で、新宿の救急病院に足を運んでくれた。そして一様に、ベッドの上で動くことができない自分に、かける言葉を失っていた。

 

誰も一緒に並んでピースサインのポーズを取ろうとは言わなかった。一度レスリングの練習仲間に言ってみたのだが、「塚本さん、ちょっとそういう気分になれませんよ…」と辞退された。

 

「塚本は終わった…」と思われる見舞客の反対側にいた自分は、いったいどのように自分の状態を受け止め、この先どうなると思っていたのだろうか…?

 

ドクターは数多く部屋に入ってきたが、自分が納得できるように説明責任を果たしてくれた人はいなかった。時間が経過してインターネットで調べても、アメリカに比べて情報量は圧倒的に少ないと感じていた。

 

頚椎損傷、或いは頸髄損傷と呼ばれるケガを、統括的に説明できる資料は病院側から見せてもらった記憶はない。

 

自分は首の骨の四番目(C4)にダメージを受けたが、それが原因で肩から下の全身の動きが影響を受けると診断されていた。脳とつながる神経はC4というゲートを通過して、肩・胸・腹を通って両腕両足へと繋がり、脳の指令通りに操作を行い目的を達成していく。

 

完全損傷と言われると、全ての神経が切れて刺激を与えても何も反応しない。電気を通してもダメということになる。一方、多少でも反応する場合は不完全損傷と呼ばれる。自分は後者の不完全損傷だったから、可動域限定でどんなに動きが遅くとも手足が「動かせた」。もちろん、滑らかさや柔らかさは全くないし、重力に負ける有様だから1〜2kgの物さえ持ち上げられずにいた。

 

C4へのダメージは人間の活動には余りに重要で、腕足の操作に関わる神経以外に、横隔膜を操作して呼吸を行うこと(これはC3という見解もあるがC4の自分もICUに入った)、食道・胃腸を操作して消化活動を継続し、最後に直腸・肛門を操作して排泄を行う神経までも網羅されている。それらが正常に機能しないということは、廃人、或いは重度の身体障害者として認定されてもおかしくはないだろう。

 

神経が通っていない筋肉は、随意筋ではなくなってしまうので、自分の意思で動かせない役立たずの肉がぶら下がっているだけになってしまう。

 

食事は看護師さんに食べさせてもらっていたが、運動量があるわけではないので食欲は湧かない。自分の意思でベッドから起き上がり、立ち上がってトイレに移動できるわけではないので、排泄はベッド上で完結していた。

排尿はカテーテルという管に泌尿器が繋がれていて、ウロバッグというプラスチックの袋に貯められていた。一日に何回か看護師アシスタントの人が回収に来ていた。排便は紙おむつをあてがわれていて、お通じがあるとナースコールで看護師さんに来てもらい清掃してもらう。手が使えない自分には、後しまつをして、衣服を整えることはできなかった。

 

こんな有様ではあっても、絶望はしていなかった。

次の病院でリハビリが始まれば2〜3ヶ月で画期的に腕や足の運動能力は回復し、具体的な次のステップのイメージが湧いてくるような気がしていた。根拠のない自信だけしか自分には持ち合わせがなかった。夏の頃には自分の足で歩けるようになりたい、と思っていた。

見舞客が心の中で、塚本のやつは終わった…と思っていても、自分の心の中では自分は終わっていなかった。

ロッキーが次のラウンドのゴングと共に、勢いよくコーナーから飛び出していくくらいの感じでいた…。

 

自分が持ち合わせていたスポーツ医学のノウハウの全てを注ぎ込んで、我が人生における史上最大の作戦が始まろうとしていた。横須賀高校応援歌「坂東武者」を心の中で口ずさみ、グレイハウンドの長距離バスで駆け抜けた夏のアメリカの大地を見ていた。

 

BGM  君をのせて@