今日はいつも月2でやっているサッカーをしてきた。でも今日はちょっと特別で、チャリティーイベントだった。けっこういろんなチャリティーイベントがロンドンで開催されている。
で、参加料として10ホンド払い「play for japan」ってロゴが入ったリストバントを貰った。ロゴが「PRAY FOR JAPAN」じゃなくてよかった。言葉尻を捉える言い方かも知れないけど、何に対して「祈る」のかが分からないから。「祈る」のはどこか遠くにある手の届かない存在に対してであって、実際に現実に起きている問題に対して祈ったところで果たしてどうなのか、俺には良く分からない。
ただ、まぁそれはただの言葉のニュアンスであって、そんなのをいちいち気にしていても仕方がないと思うし、「PRAY FOR JAPAN」という名の下でいろんなチャリティーイベントを開催している人たち対して、日本人としてすごく感謝しているし、本当に暖かい気持ちでいっぱいです。
俺が言うのも少し変かもしれないけど、本当にありがとうございます。

それで今、なんとなく右の手首に付けている。なんとなくじゃいけないのかも知れないけど、なんとなく付けている。


いつ外すかはまだ分からないけど、今のところ外す気はないし外す予定もない。(そんなことはどうでもいいことかもしれない)
あの震災を意識させるものを身に付けるという行為は、うまく言えないけど、いいか悪いかという基準から考えれば少なくとも悪いことではないと思う。
ロンドンにいて日本の為に何ができるかと考えた時、結局、何もできそうにない自分っていうものが圧倒的に浮かび上がって来て、その都度無責任な自分と「play for japan」できない無力な自分を感じる。
抽象的な問題を考える時はいつもそんな空虚で大きくぽっかり開いた空洞が、いくつも心のなかに浮かび上がる。きっと抽象的っていうのはそんなものなのかなって少し思ったりする。
誰かの為に何かをする場合には、それはきっと具体的じゃなきゃいけない。


抽象的なものは良くも悪くも抽象的な心象をどこからか呼んでくる。



問題を大きくして、解決策や答え、ゴールのような目標が何も見えない抽象的な事柄は、自己世界の確立や、自分だけのパーソナル空間の線引きを助長する面ではうまく機能するかも知れないけど、現実的で実践的な社会と名の付くシステムの上だと、精神的な病や出口の見えない悩みのようなものを作り出す可能性を多く含んでいる。
それはいいことなのか悪いことなのかは分からない。もしそれがいいことなのか悪いことなのかが最初に分かっているのなら、きっと誰も悩むことはないんだと思う。



とりあえず、思うのは、抽象的な話はあんまりしないほうがいいってこと。
具体的な話が実生活では死活的に重要になってくるってこと。

実生活という面においては。

だから日本のことはあまりしゃべらない。あんまり正直喋りたくない。
ただ自分ができる範囲でできることをする。それしかない。





きっと関係性の中でどこかで全部が繋がっている。
すごくスピリチュアルな言説に聞こえるかも知れないけど、そうじゃないかなって最近よく思う。
だから自分ができることをしなくちゃならない。関係性の一部であり、全体としての自分として。







日本で具体的な行動をしている人がいっぱいいる。そんな人が人を幸せにしている。適材適所。

今の俺は具体的に生きなくちゃならない。
誰が望んでいるでもなく、今俺が望んでいる。




あっタイトルのあまり考えないほうがいいのは自分っていう概念のこと。話が繋がると思ってたけど、うまく繋がらなかった。笑。(強引に繋げます。)

一度この概念にどっぷり飲み込まれると、どうもちっとやそっとじゃ抜けられなくなる。俺はこっちに来てからずっと抜けられなくなった。それが悪いことなのかは分からないけど、その「抜けられない」っていう感覚は、ある種の悩みのようなものに近かったんだろうと思う。(ある意味「悩みのようなもの」として誤解してしまうほど姿形が似通っていたのかもしれない。)
その「抜けられない」感覚は日常生活に怠惰や無気力を運んでくる。そして、この日常の世界さえも抽象的なものに変えてしまう。

別に、頭の中で何を考えてもいいと思う。哲学や宗教的な宇宙論を考えても全然いいと思う。
それについて考えたり悩んだり学んだり、それって素晴らしいことだと思う。俺はそういった話が大好きだし、そういった物語にある意味救われてきた。
結局、何を考えても感じても、それはすごく素敵なことで、すごく自由なことだと思う。

ただ、最近自分に言いたいことは、生活は具体的に過ごさなきゃいけないんじゃないのかってこと。ちゃんとしたルーティーンを通して、しっかり繰り返しの日常を過ごさなきゃいけないんじゃないのかってこと。

具体的な生活者じゃなきゃ抽象的な話に説得力を与えられない。そんなことを思う。
説得力や人を感動させる力や人を引き込む能力は、具体的な生活者にしか持つことができない能力じゃないのかなって思う。

だから、(俺は自分に言っている。)しっかり生活しましょう。
いろんなことをぐるぐる小宇宙の中で考えてもいいけど、生活はしっかりやりましょう。
ちゃんとしっかり戻ってきましょ。この日常にしっかり戻って来ましょう。
行き過ぎてもその分しっかり戻ってくる。それが中観っていう考え方であり、中道っていう正しい生き方なんじゃない。

そういうことが一番大切なんだなって、すごく時間がかかったけど最近分かった気がする。
まぁあとはやるだけ。



具体的に春は過ごしましょ。そんな気持ちで毎日を過ごしましょ。




今、気持ちの中で長い冬が明けた気がする。ようやく、現実的な行動に焦点を当てて考えられるようになった気がする。

だから、気持ちがハッピー。



すごくうきうき。

何にもなくてもいいじゃない。何にもないわけがないんだから。






日常が一番の宇宙だよ。














そんないつもの抽象的なブログでした笑



おやすみ。



onumahiroakinのブログ
Hexstatic-Salvador

オススメ↑
先週から一週間友達が俺の部屋に泊まってた。
友達と言ったけど、六歳も上だから俺からしたら人生の先輩でもあるし、どこかお兄ちゃんのような存在でもあった。

一緒にサッカーやってたんだけど、先週まではサッカーの集まり以外で会ったり遊んだりすることはなかったけど、この一週間ですごく感覚的な言葉かもしれないけど空気感のようなもの、なんていうか人それぞれが出す何かしらの波長のようなものがすごく違和感なく近づいたような気がした。

本当にいい人で、先輩風なんていうものをまったく吹かず、ほんとこんな年下の社会経験がないくそ坊主と同じ目線で会話してくれていたような気がした。そんな風に年下の人と接せるかと自分自身に問いかけたら、きっと今の自分では難しいなーと思う。うん厳しいなと思う。うんすごく難しい。

けっこう、年上だからなんだって思ってしまう生意気な面がかなり最近まであったけど、やっぱり年上ってすごいなってこっち来てから肌で感じるようになった。がつんと上から見られるのは未だに好きではないけど、それでも学ぶところは誰に対してもきっとあって、例え自分が糞野郎と思っている人にもきっとあって、そういう学ぶべきところとか尊敬できるところが見当たらないのはきっと自分の価値観やらが盲点となって、見えないようにしているだけだなって少し思う。

まっでもそんな理想ばっかり掲げても今は生きて行けないし、まだまだ本当に未熟だし、そんな悟りの境地のような高みにはまだまだ足を踏みいれてないから、本当に嫌いだなと思う人には素直に嫌いだなと思うし、ある程度の距離を置いちゃう。でもたまに人のいいところを探す努力をしないときっと自分のいいところって思える範囲がずっとずっと狭くなって、散らかった心の部屋に引きこもって世の中敵ばっかりになってしまう気がする。

敵が多いと思っている人の人生って、けっこうもろくて息が詰まりそうで不自由そうだから、やっぱ嫌だな。
そうならないように時々あたりを見渡して今のポジションを確認できたらいいなと思う。

楽な心の状態で、楽な身体の使い方をすればきっと敵なんてものは存在しなくなる。
そもそも敵なんてこの世にはいないし、それを作っているのはほとんどの場合自分自身であって実際に敵なんてものは存在すらしていないと思う。

今はすごく心が平和。すごく静か。




こんな気持ちにされてくれたのもゆうとさんのおかげです。
蔭ながら今度のご活躍を期待してますし、応援してます。

本当に感謝してます。

ハッピーになりました。





onumahiroakinのブログ
やくしまるえつこ nekomeshi


この歌ここ二日聞きっぱなし笑




最近読んだ内田樹さんのブログで共感したブログっていったらちょっと生意気だけど、すごくためになったブログを乗せたいと思います。








発作的に思いついた本日の主題は「自我の縮小という病態がストレスを強化する」というものである。
「自我の縮小」あるいは「自我の純化」は我々の時代の病である。
自己決定、自己責任、自分探し、自分らしさの探求、オレなりのこだわりっつうの?・・・そういった空語に私たちの時代は取り憑かれている。
これは市場経済が構造的に追求する消費単位と消費欲望の最小化の自動的帰結である。
消費単位の規模を「最小化」することをサプライヤーは要求する。
当たり前のことだが、消費単位が小さくなれば、消費単位の個数は増えるからである。
四人一家が消費単位であるばあいには家に一台テレビがあればすむが、四人がそれぞれに「私は自分の見たいものを見たい」といってプライベートテレビを要求すれば需要は四倍になる。
人間の頭数がそれほど増えないときは、消費単位を小さく切り分けて、個数を増やすのが早道である。
80年代のはじめバブル初期の消費文化の旗手だった糸井重里の最初の小説のタイトルは『家族解散』であった。
思えば、これこそが消費文化が消費単位の砂粒化を宣言した歴史的コピーであった。
家族解散は消費単位の爆発的増殖をもたらした。
解散した家族ひとりひとりはそれぞれに住居を求め、それぞれに鍋釜や冷蔵庫やクーラーや自動車を求めたからである。
「自立」はマーケットサイズを拡大する。
だから、80年代以降メディアは(自立するだけの社会的能力のないものたちにまで)家を出て一人で暮らすことを推奨したのである。
この時期に70年代に流行した「同棲」に対する社会的評価が著しく低下したことをみなさんもご記憶であろう。
理由はご賢察のとおり。「自立」していた男女に「同棲」されてしまうと市場規模が縮むからである。
そうやって日本人たちは、家族を破壊し、カップルを解体し、砂粒化した個が、(未来を担保にいれさえすればじゃんじゃん貸してくれる)借金を享楽的に蕩尽することをほとんど「国民の義務」でもあるかのように粛々と実践していったのである。
やがてバブル経済が破綻したあとも、個の砂粒化趨勢はとどまらず、それどころかグローバリゼーションの競争原理は国民たちを「自己決定・自己責任・自分探し」というさらなる消費単位の規模縮小へと追いやったのである。
「自我の縮小」「自我の純化」は市場が私たちに要求したものである。
買い手の自我の縮小を商品の売り手が要請するのは、自我が小さければ小さいほど、「こだわり」はトリヴィアルなものとなり、消費者の「こだわり」が瑣末化すればするほど、それは商品製造の工程を減らすことに結びつくからである。
例えば、「雨具」というものを商品として提供するとき、「蓑」や「番傘」や「防空頭巾」や「トレンチコート」を提供しなければならない場合と、布の色と模様だけの違う「傘」を揃えればいい場合では「雨具」メーカーの「雨具」製作のコストの間に千里の逕庭がある。
99%の工程が同一で、最後の仕上げの1%だけ工程の違う「ほとんど同じ商品」が「まったく違う商品」として認知されるという消費者サイドの「差異コンシャスネス」の高さは、生産者からすればこれほどありがたいものはない。
「自我の縮小」は生産者サイドからの強い要請にドライブされたのである。
「オレなりのこだわり」のある人間は、自分とよく似ている人間(端から見るとそっくりにしか見えない)との間の差異と共生不能をうるさく言い立てる。
それは「キミにそっくりな個体がいくらもいるよ」という指摘ほど彼のアイデンティティを脅かすものはないからである。
だから、「縮小する自我」にとって家族こそはまっさきに排除されなければならない他者となる。
それは生理学的組成も言葉づかいも価値観も身体運用も「そっくり」である家族の存在そのものが彼の唯一無二性を否定するからである
だから、縮小する自我たちにとっては口うるさい配偶者も手間のかかる子どもも介護を要する親もおせっかいな隣人も口やかましい上司もしがみつてくる部下も、すべては「自己実現・自分らしさの発揮を阻む」他者である。
主観的には彼らが「自分とぜんぜん違う」からなのであるが、実際には彼らが「自分にそっくり」だからである。
限りなく自分に近いものを否定するところから始まる「縮小する自我」の自己同一性形成は思いがけない方向に突き進んでゆく。
というのは、「縮小する自我」にとっては、自分自身の凡庸さや、身体の不調や、容貌上の欠陥や、贅肉や、臓器の異常までも「自己実現を阻む」他者にカウントされるからである。
それは「自分の一部分」であり、それとなんとか折り合ってゆくしかないという考え方は彼には浮かばない。
彼の幻想的なセルフイメージになじまないすべての彼自身の属性は、「自分らしくないもの」として否定される。
彼が否定するのは自分自身の心身の「部分」だけではない。
ときには自分を「まるごと」否定することだって辞さない。
「縮小する自我」はどうも気分がイラつくぜ、というようなときには通りすがりの子どもを刺し殺したりする。
「むかつきの解消を求める今の私」は、それからあとの逮捕取り調べ裁判懲役・・・という一連の経験に耐えねばならない「未来の私」を「自我」にカウントしていないからそういうことができるのである。
彼は裁判では「あのとき僕の中にネズミオトコが入ってきて、『殺せ』と命じたのです。やったのはネズミオトコであって、僕じゃありません」というような遁辞をおそらく主観的には非常にリアルなものとして口にすることになるだろう。
どうして「僕」じゃない人間が犯した罪を「僕」が引き受けなくちゃいけないんだ、と彼は考えるだろう。
まったく理不尽な話だ。
こんなふうに自我は限りなく縮んでゆく。
社会から与えられる自分についての外部評価を承認できないもの中には、「諸君の評価は私の『自分らしさ』を満たしていない」というメッセージを発信するために、自殺するものさえいる。
ここではもう「私の存在」さえも「縮小する自我」の「自分らしい」メッセージの運搬具として道具的・記号的に利用可能されているのである。
「自我の縮小」「自我の純化」の最終的な形態は論理的には「自殺」ということになる。
というのも「自殺」こそは自己決定・自己責任の究極のかたちだからである。
誰も私に代わって自殺を決定したり、自殺を実行することはできない。
自殺する子どもたちの「遺書」にはしばしば自殺を通じて社会にある種のインパクトを与える希望が書き記されている(自分をいじめた級友に「罰」が下ること、自分を救えなかった教師や学校が社会的指弾を受けること)。
生きている自分より死んだ自分の方が「より自分らしい自分」であるというこの自己意識の転倒は「自我への執着」がもたらす、痛ましいけれども、論理的帰結なのである。
自我というのは他者とのかかわりの中で、環境の変化を変数として取り込みつつ、そのつど解体しては再構築されるある種の「流れのよどみ」のようなものであるという「常識」が私たちの時代には欠落している。
自殺する子どもたちは「常識」のない時代の犠牲者である。
だが、それが「常識」でなくなったのは、繰り返し言うが、もとはといえば市場の要請に私たちが嬉々として従ったせいなのである。
というような話(とはだいぶ違う話)をする。


http://blog.tatsuru.com/2006/12/03_1913.php  

内田樹の研究室「心療内科学会にて」からコピーしました。




ははーすごい。

すばらしいお話をありがとうございます。




onumahiroakinのブログ
内田樹さん