仏教で老いることは四苦(しく)の一つだと言われている。すなわち

・生(しょう)=生まれる苦しみ
・老(ろう)=老いる苦しみ
・病(びょう)=病の苦しみ
・死(し)=死ぬ苦しみ

の四つをさして言われる。

思うになぜ老いることは仏教で苦なのだろうか?人は一般的に老いるとその容貌(ようぼう)は醜くなる。顔にしわやしみはできるし、男性も女性も薄毛になる。髪も体毛も白くなる。

また、特筆すべきは性的な機能の減少である。男性は女性に対する性欲自体、基本的に少なくなるし、勃起機能や、女性にとっては膣液の減少など、生殖機能も少なくなる、もしくは閉経などでなくなってしまう。

ところで、もしも神が存在するとして、神はわれわれ人間たちになぜこのような老いという仕打ちを与えたのであろうか。

老いることは間違いなく人間にとっては苦しみであり、あらゆる身体的機能や、私たちの精神的な活力も減退に向かう。

若い時期に怒りやすかった人がおだやかになり、政治的に、あるいは経済的に名声を求めていたような人、もしくは異性に対して激しい情熱を燃やしていた人たちがそれを著しく失ってしまう。

けれども、私たち現代人はそれを嘆き悲しんだり、憂いたりするのをしない。むしろ老いについての苦しみを語ると、老いとは良いものであり、それを受け入れるべきかの助言を友人や知人、家族や他者からなされることがある。

なぜだろうか。

それは私たちにとって仏教の四苦とは、現代の社会でタブーになっているからではないだろうか。

生きている人で自分がいつか死にゆく存在だと自覚している人間は少数である。

みんな、あたかも私たちは永遠に死なない存在であるかの如く立ち振る舞い、日々を生きている。

時折誰かが交通事故で死んだり、自殺したりすると、その時だけは彼らに目を止める。

しかし、私たちは次の瞬間にはこう思うのだ、

「彼は運がなかった。」

つまり彼らが死んだのは偶然であるとか、予期せぬ不運の為であり、それは私たちも彼らと同じく必ず死すべき運命共同体だとは微塵(みじん)にも思わないのである。

では、これまで議論してきた老苦についてはどうだろうか。

私達は人生を日々重ねるごとに、少しずつ老いている。

自分の老いに関しては自覚しないし、自覚しなくても目に見えないようにしている。

しかし、私たちの目に嫌でもとどまるのは他人の老いである。

若い時美しかった女性、目が輝いて、肌がきめ細やかできれいだったあの女の子、もしくはあなたの妻が、

体の表面はしわくちゃになり、目も輝きを失い、髪には白髪が混じっているのを目撃する。

その時私たちが感じるのは、彼女に対するあわれみと、美を失ったことによる不快感である。

そしてそれを意識するとき決して自分もまた彼女と同じように老いていて、醜くなったのを認めない。

私達人間にとって他者とはしょせん他者であり、自分とは無縁な存在であると常に考える。

それでいていつも自分たちは孤独だともだえ苦しみ、ネットで同じような境遇の友人を探したり、自分の苦しみを代弁しているツイートやつぶやきを見て「いいね」を押したり、あるいはリプライを返したりしている。

そうした一連の私たち人間の所作を考えると、私は人間と言うものがいかに罪深い存在か、私自身が不徳で醜い存在かを思い知らされるのである。

では、私たちは老いに対してどう立ち向かうべきであろうか。

アンチエイジングとかで皮膚を若くしたり、白髪になった髪を黒く染めたり、あるいは茶色く染め直すものもいる。

どんなに外見を若々しく保ったことで、私たちの精神的な老いまでは隠せない。

私たちは老いると体だけでなく、たとえば私たちの声まで老いる。

若者たちの声は高く、美しく響いているのに比して、年老いた人の声は低く、だみ声で曇(くも)りがかっている。

だから、たとえ私たちが醜く老いたとしても、若く振舞うのはもうよそう。

私たちの髪や体毛が白くなったときは、私たちの精神がむしろ必要以上に老いていないかを確認すべきなのだ。

年齢を重ねれば知的になるとおっしゃる方たちもいるだろう。

だが年を取ると物覚えが悪くなり、昔必死で覚えた学問や書物の知識も忘れてしまう。

全ては老いることにより悪い方向に向かう。

この現実を直視し、人間が人間であることの無常を悟るべきだ。

そしてこの世界と神の存在が無限であるのか有限であるのかを問い、生きることの再定義を行うのが老年の役目なのである。

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