戦乱を終わらせ、天下統一したのが秦の政王です。
しかし正史として信頼されている「史記」の記録によれば、実際に秦王朝の血縁をひいているか疑問が残ります。
もともと商人であった呂不韋が、趙に人質として連れて来られていた秦の王子(とは言ってもたくさん側室がいる間に生まれた、20人以上いる子のうちのひとり)に目をつけ、母国に帰った時にはいずれ秦王に仕立てる算段をたてますが、その王子が呂不韋の妾を気に入り、自分の妻とします。
ところがこの婦人はすでに呂不韋の子を腹に宿しており、のちに始皇帝となる政王の父親は、人質だった荘襄王ではなく、呂不韋だということです。
この呂不韋もやはり出生などは詳しく書かれておらず、商才や時代を先読みできる能力からして、移住してきたイスラエル人の子孫であったのかもしれません。事実、始皇帝の容貌は当時の中国人からは異様に見えたらしく「秦王の面相は、鼻が高く、目が長く、くまたかのように胸が突き出し、豺(山犬)のような声をし」と記録されています。

このあたりの話は、前述どおり史記に載っているだけのもので、それより前の時代と同じ、神話や伝説とひとくくりにされていたのですが、1975頃から本格的に発掘調査されるようになった兵馬俑の存在において、史実であることが判明します。

これは秦始皇帝の陵墓を守るため、その供養として人を生贄にするかわりに陶器製の人形を作って埋めた副葬品と言われています。等身大の兵士たちだけでなく、馬や武器なども忠実に再現されており、一人一人モデルがあったのか、六千体以上ある中でも、同じ顔はふたつとないそうです。
兵士たちも槍や盾を持つもの、弓をつがえるもの、馬を曳くもの、肉弾戦に向いた力士、戦車(馬車)に乗る御者、戦闘記録をつける文官、通信に使ったのかもしれない鳥などまで存在しており、元々は彩色もされていたことが明らかになっています。
装飾などから、位の高い人をモデルにしたと思われる「将軍俑」もありますが、単純な武具を扱う兵士に比べてしっかりとした顔つきになっており、やはり中国土着の一般兵と血縁的な違いがあるのではないかと考えさせられます。
 ※彫りが深めで端正な顔つきの将軍俑

 ※のっぺりとした顔つきが多い一般兵

この素晴らしい芸術に噛みついたのが、やはり欧米人たちです。
ギリシャと同じ時代に、黄色人種がこれほどの彫刻技術を持っているはずがない。もっと近い時代に作ったモノを埋めのではないか?
と発掘当初は言われていたようです。
実際、以後の時代にもこの兵馬俑を模して作られたと思えるものや、村おこしを狙った「なんちゃって兵馬俑」ありますが、等身大サイズとはいかず、技術面でも稚拙になっているそうです。
秦始皇帝の時代にはあった技術が失われて、時代が進んでも技術は後退するなどということは、一般には考えにくいものですが、このような先進技術を持った人々が、別の土地に移住してしまったとするなら、それはありうることと言えるでしょう。

この兵馬俑たち、なぜか一様にまっすぐ東を向いています。始皇帝の時代以降、東へ旅立った人達がいたのでしょうか?
あるいは彼らも、東へ行きたかったのでしょうか?