沖縄には独特の宗教儀式が多く伝わっていますが、祭祀を執り行なう中心となる存在は、ノロと呼ばれる女性神官です。
一般の神社にも巫女と呼ばれる女性たちがいますが、役割はあくまでも補佐的な範囲であり、祭祀を実際に取り仕切るのはあくまで男性の神主です。
白装束に勾玉をつける姿からすると、仏教よりも神道に寄った伝統だと理解できます。
そして頭には必ず被り物をつけます。

現在の沖縄には神社も、少ないながら寺も存在していますが、沖縄独特の宗教行事を執り行なう場所はウタキ(御嶽)と呼ばれる聖地です。
屋根も建物もなく、岩肌に面したところや、石を積んであるところ、ただの石畳であるケースも多く、一般な神社と比べて非常に質素です。
どうやら御嶽はより大きなグスク(城)という施設にあるスペースを指すもので、神社にある拝殿というべき場所にあたるイメージです。

イスラエル人たちはエルサレムに巨大な神殿を持っていましたが、人々の暮らす集落ごとにシナゴーグ(会堂)と呼ばれる集会場所をがありました。
現在は建物となっていますが、原始的には屋外の広場のような場所で特別な飾りつけなどもないようで、やはり共通するところがあります。
ただイスラエルでも宗教行事を執り行なうのは男性のみで、女性が果たす務めではありません。

沖縄には、女性を中心に宗教行事を執り行なう理由があったと結論づけられます。

最初に沖縄を見つけたメンバーの大多数はそのまま定住して農耕や建築に勤しみ、子孫も残しながら、新たな国の基盤を固めてゆきます。
一方沖縄から船で故郷に戻り、決定した移住先と航海ルートを、待ち受ける仲間たちに伝える役割を受け持った人もいたでしょう。
第2次、3次と、移民船団が数年おきに到着し、徐々に人口は増えて行きました。
エツヨンゲベルとナハの間を、おそらく片道2年近くかけて往き来する移民船でしたが、数を重ねるごとに船は老朽化が目立ち、数も減っていました。
本国は疲弊し、船を新しく増やす余裕はありません。安全に到達する割合も100%ともいかず、特に迷路のように小さな島が散在している東南アジアあたりで取り残されてしまう一団もありました。
海路での移住は限界を感じ、奄美群島から先にある日本列島に、朝鮮半島から陸路伝いで大規模移民を受け入れる必要があると判断します。

沖縄で建造した、移民船よりも小型の船に乗って、さらなるフロンティアに向けて北に向かうのは、おそらく沖縄で産まれ育った若者たち。
沖縄から離れると黒潮に乗り、特別な経験を積まなくても、比較的安全に日本列島に行き着きます。
それは一方通行の航海でもあり、黒潮に逆らって南に戻り連絡をとることは、ほぼ不可能となります。
沖縄は既にある程度の生活基盤が確立されており、特に男手が必要とされたのは開拓団でしょう。
古代イスラエルの男性が成人とみなされるのは比較的遅く30歳です(民数4:3)。家族の主人となれる、バランスのとれた人格が求められました。
それまでに結婚して、子孫を残しておく男性が多かったでしょう。彼らは愛する我が子に愛情をたっぷりと注ぎ、30代に入ると開拓団に加わり、島に残した子供が、いずれ成長して日本列島で再会しにくる日を待ち望みながら、勤勉に働きます。
海に出たきり帰ってこない。男はウミンチュ(海人)となるのです。

女性もまた選択する時が来ます。島に残って子供たちを見守るか、開拓団に志願して旦那を支えるか。
結果、沖縄本島に残る経験を積んだ知恵者が女性ばかりとなり、重要な宗教行事も執り行なうようになります。イスラエルの習慣にあるよう、被り物を必ず着けけて(コリ一11:6)務めを果たします。
沖縄の子供たちにとって、島に残った女性はみんなの母親であり、その母親たちもまた、年長の女性を敬い、信頼します。


沖縄本島の東にある久高島は聖地とされ、そこでは12年に1度行われる「イザイホー」という、前回の祭りから新た30歳以上となった女性たちを神女(カミンチュ)として迎える特別な儀式がありました。
島を出て新たな国づくりに向かった男たち、子供たち、さらにそれに付き添った友たち。
彼らの活躍と安全を願い、残された家族を見守る務めに対する覚悟を確かめ合う行事だったのではないでしょうか。