人それぞれ、幸せの定義が違う。

例えば、何かを得ることで幸せを感じる人、何からも執着せず自由に生きる、それが幸せと感じる人。

そのどちらでもなく、得ることも執着もせず、そもそも幸せになろうという意識がないような人。

少し前の私は、何からも執着せず自由に生きる、それが幸せと感じる人だった。

けれど最近は、そのどちらでもなく、得ることも執着もせず、そもそも幸せになろうという意識がないような状態に変わってきている。

どのような出来事に対しても、相手に対する慈悲の心が湧いてくる感覚があり、相手の行為そのままを受け取るため、自分が置かれている状況と、自分が感じる幸せとはリンクしない。

自分にとってのプラスマイナス、良いこと悪いこと、どちらにしても幸せだということに気づいているというか、何があっても幸せなわけで。

こんなふうに感じられるのは、やはり猫ちゃ達のおかげだろう。

日々いろんなことがあり、悔しい思いも沢山ある、それでも猫ちゃ達の生き方を通して、私が私として生きられる喜び、感謝、そして何よりも猫ちゃ達との必然的な出会い、対等に心を通わせ、繋がり合える日々…

なんて、幸せな想像?に勘違いしながら続けている猫ちゃ活動が、いつの間にか私の血肉となり、生きる糧となっている。

猫ちゃ達の生き方は、自分で考え、行動し、人生を切り開いていくことと同じ。

自分を生きる幸せ、そのもの…

幸せの定義、今の私は既に在る。

いや、気づかなかっただけで、ずっと前から在った。

もう、幸せを追い求めることはないな、きっと。