⒈ あまり定かではないのだが、私が「砂の女」を読んだのは、大学時代に「Man of Aran」というドキュメンタリー映画に心射抜かれたのがきっかけだったと思う。
「Man of Aran」はアイルランドのアラン島に暮らす数世帯の島民の生活を撮った、1937年製作のドキュメンタリー作品。
簡単に内容を言うと
アラン島は土のない岩でできた島で、強風が吹き人が住めるような環境ではない土地。そこで岩を砕きジャガイモ栽培をし、毎日を淡々と生きていく家族。
普通に考えればただの過酷な生活なのだが、なぜかとても美しく見えた。今覚えば、私が滅びゆく街、荒廃した場所というのが好きだっただけかも知れない。
そこから、私もこんなドキュメンタリーを撮るのだと夢想し、隔絶された社会で生きる人々の生活の文献と映像を数多く見た。その中に「砂の女」が含まれていた。
⒉ 「砂の女」が出版された1960年代、日本は高度経済成長によって、生産社会から大衆消費社会に変わっていた。
私は1986年に生まれたので高度経済成長時期の日本の空気感はわからないが、安部公房はじめ多くの作家がこの資本主義、近代合理主義に疑問や危機感を抱いていたのは感じ取れる。
近代合理主義、資本主義に生きてきた男が昆虫採取のために高い砂丘を登っていく。ハンミョウを探している時はそこまで砂が体につくことを男は気にしていない。ただ今にも埋もれそうな家を見た時から男は砂を丁寧に払いだす、勅使河原監督の映画ではワンカット、足の隙間まで丁寧に払っている描写が長尺で描かれている。侮蔑にも似た感情があったのかもしれない。
それと対比するように女は砂が積もっても気にせずに寝ている。モノクロ映像なのでわからないが、カラーならばチンダル現象がおこって部屋がキラキラしていることだろう。女は不幸だとか貧しいとか感じていない。これが日常なのだ。男が人それぞれの持つ日常のあり方に気づき始めたのは男が砂の壁から脱出することを失敗したときで、本当に外の世界が砂の内側よりもより良い世界なのかを考えるセリフがある。そこが分岐点である。
⒊ 私は映画が映画である為には、二つ大事な要素がいると考えている。
一つ目は、美しくなければならないということ
もう一つは、ファンタジーであってもそこに生きる人たちがどうやって生きてきたかをしっかりとわからせなければならない、簡単にいうと地域性を持たせるということ
砂の女の映画を一つ目で言えば、レイアウトである。カメラアングルが捨てカットがないくらいきれいに敷き詰めてある。勅使河原監督は、絵が描ける人特有の空間把握能力が高かったのだと思う。
二つ目は、見事な美術で組み立てたセットと食事のシーンにより、ここでどんな生活をして生きているのかが、観客にすぐに理解できるように組み上げている。
「砂の女」は非常に少ない場面で構成されて、男が登ってきた砂丘、ハンミョウを探していた海岸、(蛇足だが、虫が好きな私には気になったのだが、海岸にいるハンミョウは絶無危惧種で映画のような場所に本当にいて、別の呼び名をミチオシエと言いう。これもかかっていたのかもしれない。)砂に埋もれた家三つ。この三つしかない中で荒屋のセットと食事のシーンでほぼ説明し切ってしまう凄さ。砂が家を飲み込もうとしてること、米があるということ。外の世界との交流があるがここの生活を本当に選んでいるだと理解させここに人が生きているんだという説得力。あの間を埋める岸田今日子の所作も美しい。ロケーションはさぞ苦労したことと思う。
また、男が嵌められたことに気づき、女と口論する長尺のカットがある。その場面を引きのカメ
ラアングルで撮りカチッと決めたレイアウトで回すなどというのはきっと今ではできないだろう。今同じことをするならば、表情をインサートするなどして構成するのだろうか。そして、昔の役者の持っている芝居の技術、巧さを痛感させられた。宮崎駿監督が今の人たちの演技には相手を慮っている演技をするから変な間ができると言っていたが、私も同感である。
⒋ 映画、小説を通じて外の世界を捨てた男のキャラクターは、方丈記の鴨長明、「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」を描いた画家ポール・ゴーギャンのようであり、また同じ1962年に出版されたレヴィストロースの「野生の思考」でのブリコラージュという言葉を思い出す。
近現代の合理主義、資本主義は本当に人類を進歩させたのか。衣食住足りて礼節を知るというが、結局のところ礼節はなくなった。ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者なのか 我々はどこへ行くのか」の問いかけが今響いてくる。
去年の芥川賞では焦燥感のある作品が多く見受けられた。現代はもう大衆消費社会も終わりを迎えつつある。本来娯楽とは、生産者社会でひと時の安らぎとして受け入れられていたものであり、そこを延命策で消費社会も乗り切ろうとしていたが、それも終わるのだ。コロナで経済が一度止まるという経験もし、日本はこれから皆貧しくなると言われる。その時、「砂の女」に出てくる男のように何かを見出せるのだろうか。
私は、娯楽とはきってはきれないエンターテイメントの業界で生きている。散々悲観的なことを言ったが、正直に言うと本当はさほど危機感は感じていない。終わる時は終わる、植木等の「そのうちなんとかなるだろう」と言う気持ちである。
私を含め多くの若い人が本を読まなくなった、活字を見なくなったと嘆く人もいる。けれど、日本はたまたま日露戦争で樺太を領土として獲得したことから大量の紙が手に入ることになって読書ブームが起こったそうではないか。だとすれば、よく100年以上も続いたなと逆に思う。ただ良いものは恐竜が鳥に進化したように形を変えて残っていくのだと思う。
昔、勅使河原宏や安部公房がサルトルや哲学書を読んでいたように、今はInstagramやTikTokをみんなは見ている。この二つはどこかで共通点がありはしないか。前者は少しの娯楽を欲し、後者は少しの学びを欲している。現代の作家達がそれに気づいて物語を作れば「砂の女」のように半世紀以上語られる作品が生まれるのだと思うのである。
「歌は世につれ世は歌につれ。」
(注) 私は一度読んだ本、映画は心の中で理想の形で保存している。
今回この文書を書くにあたり再度読もうと思ったが、途中で止めることにした。自分の中の「砂の女」が壊れてしまうから。だから多少記憶違いもあると思うが、悪しからず。