( ´ ▽ ` )ノゆったりのブログ

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気ままに語ったり、つぶやいたり

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火垂るの墓という映画を、ふらっと見て。

まぁ、色んな感想があると思いますが。


火垂るの墓を見ると、「他者に寄り添わない生き方」の結末を知る気がします。

清太の「自己中心性」といいますか。
「他者に寄り添わない」といいますか。


例えば、清太は節子よりも後に死にます。
節子よりも長生きしたわけですが、どうして節子よりも長生き出来たのでしょう。

「栄養失調ですね、食べるしかないです」と医師に言われたのは節子だけ。

同じように食べものを食べる生活だったのでしょうか。

最後の雑炊やスイカは、節子が亡くなったから、自分一人で食べたのでしょうか。

それとも、その前から既にそうだったのでしょうか。

医者に「滋養なんて何処にあるんですか!?」
と声を荒げた彼は、それでも「この子を助けて下さい」とおばさんに助けを求めることはしませんでした。

節子を助けようとはしていません。

誰かを助けようとはしていません。



このような描写はオープニングの空襲から逃げるシーンでも同じで、
空襲を一旦逃れるために、家に逃げ込んだあと、外に出ると、家はまだ燃えていませんでした。
そして、ハシゴと、水たまりと、バケツの映像が映ります。
まだ今なら消せるかもしれませんが、清太はそのまま逃げます。

「あなたの年齢なら、消火活動するのが当たり前じゃないの?」
後におばさんから清太に突きつけられた言葉です。

しかし後のシーンで、清太は、その空襲の時に、盗みを働いた上で、「もっとやれ」と叫びます。

誰かを助けようとはしません。


焼け野原のあと、「うわぁ全部畑になったなぁ」などと呟いていますが、清太自身は、なんとか生きようと畑を耕したりはしません。盗みはしましたが。
海に塩を取りに行くでもない、
「東京に親戚いるんでしょう」とおばさんに言われても、「住所わからんし」と呟くだけで、調べようともしません。

他責も沢山あります。
「堪忍してください、妹病気なんです!」
「学校燃えてしもて、行っても仕方ないんです」
「家焼けてもたん?どないすんの?」「お父ちゃんが仇うってくれるって」
「滋養なんかどこにあるんですか!?」

おばさんが悪いんだ、戦争が悪いんだ、と他責に終始する。この映画を見て、そんな感想を少しでも持ったなら、清太と同じになります。

清太が悪い、って感想を持ったとしても、独りよがりな行動をした事のある自分自身を思い出す。

だからこの映画は後味が悪い。


節子が亡くなる前後のシーンは象徴的です。

「滋養なんかどこにあるんですか」と医者に対して声を荒げたあと、まだ裕福そうな家(滋養がありそうな)の前で、「腹減ったなぁ」と一言呟き、そのあと節子に向けて言葉をかけます。

「何が食べたい?」

もはや自分の足では歩けなくなった節子にかけた言葉はこれでした。

「腹減ったなぁ」
何かを食べたいのは、清太自身です。

つまり、「何が食べたい?」この質問は、栄養失調の節子を思ったもの、というよりも、今、自分が言って欲しい言葉です。

彼は知っていたはずです、これでお金が尽きることも、食べ物を沢山買おうが節子は今多くは食べられないことも、節子の本当の願いも、もう節子は死ぬことも。

たくさん買えば、たくさん食べるのは清太です。

自分がたくさん食べたい、その清太の欲望を、節子の欲望に変換するわけです。
そうする事で、独りよがりな自分ではない兄でいられるからです。
節子に責任を押し付ければ自分は自責の念からは解放されます。

清太は衰弱した節子を助ける兄を演じる事で、自分の欲望を満たそうとしていた。

清太は、子供には米を、清太と節子には上澄みしか食べさせなかったおばさんと同じことをしようとしてたわけです。

清太とおばさんは同じ。

実際に、節子に食べきれるはずのないスイカ丸々一つ、作ったおかゆの量は、鍋いっぱいでした。

誰が食べるのでしょう。誰のために、そんなに大量に作ったのでしょう。

清太は、節子を助けようとはせず、助けるフリをしていただけのような感じです。


「腹減ったなぁ、何が食べたい?」
「天ぷらとな、おつくりとな、トコロテン、、あとドロップ」
「よっしゃ、貯金全部おろしてくるわ、買ってきたろ」
「うち、なんもいらん、うちにおって、にいちやん、行かんといて、行かんといて」

節子のこの願いは、一体なぜ生まれたのかも、彼は知っていた。

息を引き取ったあとに流れた「洞窟に住み始めて節子がまだ元気だった頃」の映像は、

いつも「一人でいる」節子です。

池に向かってジャンケンをしていますし、
一人で、けんけんぱ をしています。
清太の服を縫っていたり、掃除をしていたりもします。
一人で。
どれだけの時間を、節子は一人で過ごしていたのでしょうか。
清太はどれだけの時間、節子を一人で放置していたのでしょうか。

「節子の面倒を僕が見ないとダメなんです!」
というセリフは、誰のために発せられるのでしょうか。


清太は誰にも寄り添おうとはしなかったし、
誰かを助けようともしませんでした。
何かをしようともしなかった。

ただただ、自分の欲望を独りよがりに求め、
他責に終始しました。

結果、清太は誰にも助けを求められなくなりました。

だから、節子が亡くなった後、寄り添ってくれる人や助けてくれる人が誰もいない、そんな世界を清太は生きることになります。

人とのつながりが完全に消えた。

そして清太は生きる希望もなく命を落とします。



映像にある様々な演出で、清太は「僕は君だよ」と訴えかけてくるようです。


「独りよがりで、誰かを助けようとしない生き方は、どんな結末をもたらすのか、教えてあげるよ」

そんな自分の姿を、死後、節子に見せて罪を償おうとしている映画だと思いますが。


「自分さえよければ」そんな清太が自分を含めた全人類みたいな気がしてくる。


母は死に、節子が死に、父の死を知り、世間の人々とも隔絶され、清太は生きる活力を失ったかのようです。




生きる、とは、誰かとつながる事である。


そのつながりが途絶えた時、人は生きる事をやめてしまう。


戦争でなくても、現代でもその現象は多々あって、戦争だからどうのというメッセージではありませんが、

皮肉めいた描写が、とても嫌な気持ちにさせます。

明るい未来を提示してくれたらいいのに、と。


ただ、「節子の前でだけはいい兄でいよう」としていたのは、それでもとても大切だとも思えます。

清太が泣くシーンは、いつも「不甲斐ない兄の姿を見せてしまった後」です。

母の死を伝えてやれなくて
盗みを見られて

清太は涙を流します。

「私にはいい兄がいる」
最後まで、節子にその夢を見せたままだったかもしれない。

本当はいい兄なんかじゃなかったんだと、清太は後悔していますが、節子にとってはいい兄だったかもしれない。

そこが唯一、この物語の救いなのかもしれないなぁとも思いました。

AIとか自動化とか、最近は目覚ましい発展を遂げてます。

「人の仕事が奪われる」


なんて言われ方もされるくらいなのですが。



これが極地までいくと、どうなるんやろうかと想像した結果、


この世の中から、今ある仕事が全てなくなる


という結論になる訳ですよね。

そうすると、どうなるかというと、


我ら人間は、働かずに生きていくことが出来るのではなかろうか?

と思いません?


だってほら、

優秀なAI経営者が、優秀なAI社員や、優秀な自動AI機械を使って、優秀な作物や製品やサービスやその他もろもろを全て、企画して製造して分配するわけでしょ。
自動運転で製品は世界中に分配されると。

そしたら、ほら。

人間は、遊び暮らせる。




なぜならば、お金稼がなくていいから。

お金はなぜあるのかといえば、企業で「人が働く」からですよね。

でも「働く人がいなくなる」と、誰に払うのか?という話です。
労働にかかるコストはゼロになるはずです。

コストゼロなんだから、払うのもゼロ。



AIにお金なんて払ってもしゃーないでしょ?
お願いしたら、勝手に作ってくれるわけで。
別に疲れたりしませんからね、AIは。

進化したAIすら、AIが作っていくだろうし、
新しい製品も薬もスーパーコンピュータも電気も家もなんもかも。
農作業自動マシンとかをAIが設計製造するし、その製造工場すらAIが設計建設するし、浄水施設だの地球環境どうのだの、農作物の製造だの収穫だの、政治だの医療だの裁判だの、あらゆるものがAIと自動マシンで作られるわけで。

スーパーマーケットなんかいらんよね。
家で発注すれば、自動配達。
燃料なんかAIが掘ってくれるから、なんせお金はいらないでしょ。


今は
「アレクサ、音楽を流して」
を無料でやりますけども。

「新しいスマホ作って」
「ハワイに連れてって」
「美味しいパスタ持ってきて」
「掃除しといて」
「野球やりたいから、希望メンバー集めて」


まぁなんでもかんでも、無料でやり始めますよね、きっと。

「研究にお金がいるのです!」

もはや要らなくなるでしょ。

AIが勝手に無料でやるし。



24時間365日、あらゆるものが、いつでも、どこにいても、無料で手に入る。

1人がせしめるのは無駄でしかない。
そもそも、せしめなくても、足りなくなったら勝手に来るわけで。せしめる必要もない。

災害対策なんか、勝手にやってくれるし。災害予測も、予防も、勝手にやってくれるし。
地震が起こっても大丈夫な場所に大丈夫な建物を建てたり、まぁなんせ緊急対策もAIの素晴らしい計算によって完璧。
そんなものが無料でバンバン手に入る。


となると、金融というものがそもそも不要になる。

「お金を払って手に入れる」が終わる。

「全てが無料で手に入る」に変化する。

「遊びにも生活にも、お金がいらない」と。



AIの発展によって訪れる未来は、


「仕事が奪われる」

のではなくて、

「お金がいらなくなるから、仕事せずに遊び暮らせる」


じゃなかろうかと。



人類の誕生以来、「労働は常識」でしたが、もはや「ほほう、労働なんかしとったんか、昔の人間は。大変やな。」という未来。

贅沢にお金は必須でしたが、「お金?なにそれおいしいの?」という未来。


好きな時に好きな事して生きていればいいのですよ。


じゃあ人類はアホになるのかと言えば、そうでもないと思うんです。

「あの子と付き合う」のは、AIではどうこう出来ませんからね。個人の感情はAIではどうにもならんわけで。

人生とは学びです。

人類は労働のためではない学びを続けると思うんです。

この「労働から解放された思考」は、もしかしたら、すごいかもしれないですよ。


未来すごいな、、と思ったり。

「クラスエフェクト」


という言葉が、医学の世界にはあります。


「クラスエフェクト」というのは、「あるカテゴリーの薬に共通する効果」といった意味です。


医学の世界にはある

と言ったのは、「クラスエフェクト」なる言葉を使う業界は、健康と医学の世界くらいで、とても少ないからです。


例えば、「松坂牛のロース肉と、オージービーフのロース肉は、同じだ」なんて言う人は、プロの料理人じゃなくても、あまりいません。
ましてやプロの料理人なら尚更です。


ゴルフでも、「キャロウェイのドライバーとダンロップのドライバーは同じだ」なんて言う人は、アマチュアゴルファーでもあまりいない。プロゴルファーなら尚更です。


こういうものを「同じです、クラスエフェクト」と言うのは、素人くらいですかね。

ゴルフ始めたての素人が「ドライバーはどれも同じ」と捉えていますが、多少経験があれば違いにこだわり、プロならば尚更違いを知っています。



ところが、薬の世界や健康の世界になると、違う。

これを言うのは、素人だけではなく、プロです。


「ヨーグルトは腸内にうんぬん」
「納豆は血液をうんぬん」
「緑黄色野菜はうんぬん」
「RA系の降圧薬は腎臓をうんぬん」
「SGLT2阻害薬は心臓をうんぬん」


「クラスエフェクトです」


と。





ヨーグルトは山ほど種類があるけど、何がちがうの?

納豆はたくさん種類があるけど、どう違うのでしょうか?

レタスはどの産地のどのレタスが?

RA系の降圧薬は沢山あるけど、どう違うんですか?

SGLT2阻害薬はどう違うのですか?



ということに答えるのがプロ、というのがよくある世界なわけですが、
医学や健康の世界のプロは、まだそうではありません。


細かな違いを誰も知らない時代から、
細かな違いをプロが認識する時代に進み、
細かな違いを素人が知る時代がくる

とするならば、


「クラスエフェクト」と認識する医学の世界は、
まだまだ発展途上のかなり前半にいる学問です。



それくらい人間の体のことは分かっていないから、ということなのですが。


まだまだ新しいことが、これからどんどん分かってくる時代が医学や健康の未来には残されている、という意味において、
医学はとてもワクワクする分野だと感じます。



いまは「クラスエフェクト」の時代ですが、その認識の時代から抜け出した未来の時代がどうなるのかなぁ、なんて思いながら、ヨーグルトの成分表を比べてみると、結構ヨーグルトって違うんだね、と気付いたりして。

しかし、明治ブルガリアヨーグルトうまいな。