コミュニケーションが苦手な人は
会話における自己主張、自己表現が苦手であるのは周知の通り。

問題は他の人から見てその人が苦手な人であるかわかるか否かである。

何故ならば、一般的に人と会話することによって生活から社会を円滑に生活していく必要があるからで、コミュニケーションが苦手な人は孤独に陥りやすくなる。

ただ誤解してはいけないのは、そういった人は会話、発語によるコミュニケーション、自己表現、自己主張が苦手であっても他の手段で自分を表現する能力に長けていたりする。

芸術面での音楽、文章、絵や詩、それらがそれに当たると思う。

ただ日常においてのコミュニケーションは言葉のやり取り、発語していくのがメジャーであり、てっとり早い。
効率よく、即座に意思の疎通を図るわけである。

その分会話するものには一種の瞬発力が求められるわけである。

ところがこれが得意でない人はどんどん会話に置いていかれしまい、時に流され、自分が意図しない方向に返事をしたりしてしまい、結果的に我慢を強いられ大きなストレスとなる。

そうなるともはや自分の殻に閉じこもりがちになり、あらゆる思考や外に出せない思いが自分の中でぐるぐると巡る。

そうなってしまうと人間どうにかして相手に知らせようと努める。

その結果が心配をかけさせる行為をあえてやってのけるということである。

他の人からすれば一見理解できない、何故このようなことをするのだろう?といった行為がそれである。

当人はと言えば、最も苦しんでいる場合が多い。
言葉にならぬ思いをなんとかして伝えんとするし、
元はと言えば人に合わす優しさを持ち合わせた人間であるがゆえに自己主張ができないのである。

本来、相手にあえて心配をかけさせる行為は不本意で本来の目的ではない。会話をするためのとっかかりのようなものが欲しい。そのために本人はのちに大きな罪悪感に苦しむのである。

そうしてまたその人は自分の中で終わらない苦しみの循環を繰り返し、終わりのない閉塞感に置かれ、いよいよ孤独極まるのである。

そうした人は周りの人たちの支援が必須である。
どうすれば良いか、会話の機会を設けることである。
それも相手の意思と発言を尊重することはもちろん、
どのような内容であっても一個人の意見として受容する態度が大切である。

そういった人を見極めるにはどうすれば良いか。

その人の言動をよく注意するところにある。

先に述べた、どうしてこの人はこういうことをするのだろうか?と疑問を持ちその人のバックグランドを知り、分析すべきである。一体なにを伝えたいのかと。

一見すると当たり前のようなことに思えるが、普段において周りへの気配りをおろそかにし、他者を思いやれず、客観的な視点を持ち合わせなければ、その人はそういう人だという
自分にとって善か悪かで分類して終わりにしてしまいがちである。

本来のコミュニケーションの上手な人というのは、
会話が得意で円滑に話せることだけにあらず。

コミュニケーションが苦手な人に気づいてその人にあった声かけができるのか、もしくはその人のための自己表現、自己主張の場を与えられるか否かにあると思う。

そうした人たちへの普段での気配りと気づきが人を助けられるチャンスであると思って、コミュニケーション不足の及ぼす影響と真にコミュニケーションが得意な人の特徴をあげさせていただいた。